4月19日第6回口頭弁論報告

第7 駒場寮自治会による駒場寮管理の歴史的経緯

 原判決は、以下のように述べる。
「前記のような駒場寮の管理に関する一定の慣行が存在するとしても、右慣行は、その内容に照らしてみても、学長が有する行政財産(本件建物)の存廃」についての決定権を制限するものではないし、その性質上も、東京大学側が学生に自律を尊重して、被告駒場寮自治会に対し本件建物の管理等について一定の事務を委ねるとともに、寮生活に重大なかかわりを持つ問題については寮生の意思を反映させるように努力するという事実上の措置にとどまるものであり、それが法的な効力を有するものとは認められないから、右慣行が存在することにより直ちに学長が被告駒場寮自治会に対して本件建物の管理権限を委譲したとか、その管理権限に対する制限を容認したとかいうことはできない。」(原判決73頁)。
 原判決はこのように駒場寮の自治に関する慣行を認めながら、それは事実上の措置に過ぎないとして、駒場寮の管理権限委譲の事実を否定する。しかし、歴史的事実はむしろ、前述した意味での駒場寮の駒場寮の管理権限委譲が適正になされた事実を裏付けているのである。

1 旧制一高時代から確立された寮自治

 東京大学教養学部の前身である第一高等学校寮の寮生自治は、1890年(明治23年)に、木下廣次校長が、寮生に対して寮の管理運営を寮生の自治に委任することを提案し、寮生が自治的にこの委任を受諾することを決議したことに始まるものである(乙67の1、2、乙68、乙54、乙162の1,2、乙167)。
 重要なことは、当時の学校側が、教育目的に照らして、寮の管理運営を寮生の自治に委ねることが重要であると考え、管理運営権限の移譲を寮生に提案し、寮生側がこれを受諾するという、明確な合意にもとづいて寮自治が開始されたということである。
 駒場寮は、その後1934年に旧制第一高等学校の学寮として建設されたものであるが、右の合意を引き継ぎ、建設当初から学生の自治寮として寮の管理運営は全面的に寮生に委ねられてきた。
 東京大学が発行した『東京大学百年史』においても、駒場寮では「旧制一高以来の伝統である完全自治の体制が営まれ」てきたことが明記されている(乙22)。

2 日本国憲法の施行・学制改革と寮自治

 戦後の学制改革を経て、駒場寮は旧制第一高等学校から東京大学教養学部の学寮となったが、自治寮としての寮生の管理委運営権はそのまま引き継がれた(乙166・小林泰夫陳述書)。
 この際、旧制第一高等学校と違って全寮制ではなくなったこと、入寮希望者の需要にすべて応えるだけの部屋が確保できなかったことから、入寮選考を行うことが必要となったが、入寮選考は当初から寮生の団体である駒場寮自治会が行い、大学当局が入寮選考に口を挟むことはなかった(乙167)。
 1951年(昭和26年)以降は、駒場寮自治会が入寮選考を行い、入寮内定者の名簿を教養学部当局に提出するのと引き換えに入寮内定者数分の入寮許可証を一括して受け取るといういわゆる「矢内原方式」にもとづく入寮選考手続が実施されてきた。これは、これは、寮自治会と大学との間に明確な合意が存在していたことを示している(成瀬証人・47頁、乙64)。

3 寮自治に対する文部省の介入と寮自治の擁護

 文部省は、1960年の安保闘争を一つの契機として、大学の管理権限を強調して、学生の寮自治に対する攻撃を強めた。その具体的な現れの一つが、「受益者負担」主義の立場から出された1964年(昭和39年)2月18日付のいわゆる水光熱費の負担区分通達(「学寮における経費の負担区分について」)による寮生の負担部分明確化の要求である。しかし、右通達後も、実際には各大学が実情に応じて自主的に寮生の負担を定めていた。 駒場寮においても、水道・電気代は、全額大学が負担し、燃料費も寮自治会が一部負担しているものを除いて大学が負担していた(成瀬証人・5頁)。
 もう一つの寮自治への攻撃は、同年8月に出された「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」(以下「規則案」という)であった(乙56)。
 後者の規則案は、学寮に対する大学の管理権限の明確化と称して、学生の寮自治を弱体化することを目的としたものである。とくに、学寮の管理運営権限の核心部分である入寮選考については、「入寮を許可すべき者の選考は、学寮委員会の定めた方針に基づき、管理運営責任者が行う」(第6条)、「入寮の許可は、前条の選考の結果に基づいて、管理運営責任者が行う」(第7条)とするなど(乙56・266頁)、駒場寮で行われてきた寮自治会が実質的な入寮選考権を有する取扱いとは異なるものであった。
 文部省の方針を受けて、駒場寮についても、1964年秋から入寮手続をめぐる問題が生じた。大学側は、駒場寮自治会に対して、従来の方式を改めて、教養学部長が直接駒場寮に入寮する個々人に対して入寮許可証を発行し、寮生個々人から寮籍票の記載を受けたものを受け取るという方式に変更することを提案した(成瀬証人・48頁、乙64)。これに対し、駒場寮自治会は、大学側の提案が学生自治にもとづく従来の方式を変え、駒寮自治会の入寮選考権を弱めるものであるとして、強く反対した。
 その後、大学と駒場寮自治会との交渉の結果、1966年に合意が成立し、一応の解決をみることとなった(この間の経過について乙65の1〜6)。
 このときの合意内容は、「教養学部所管の学寮は、最終的には学部長の管理責任の下にあるが、学部と寮生相互の信頼に基づき、寮生の自治によって運営されている」ことを確認したうえで、入寮選考手続に関しては、「学部はこの信頼関係を基礎として、学部創設以来、まもられてきた入寮選考の慣行(いわゆる矢内原方式)をまもる」とされている(乙64)。
 結局、この問題の交渉を通じて、入寮選考の実質的権限を駒場寮自治が有するという慣行があらためて確認され、寮自治会の権限が大学との明確な合意によって認められたといえる。

4 東大闘争を経て強化された寮自治

(1) 東大「確認書」と大学の自治

 旧来の教授会自治の在り方を問う東大闘争の結果、東京大学でも、前述した1969年1月10日のいわゆる7学部集会において、学生と大学当局との間で、26項目の「確認書」が結ばれた(乙1)。 「大学の管理運営の改革について」、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が現時点において誤りであることを認め、学生・院生・職員もそれぞれ固有の権利をもって大学の自治を形成していることを確認する。」との「確認書」の内容は、東京大学評議会決定でも再度確認されるとともに、大学と学生を拘束するものと明確に位置づけられている。

(2) 寮自治の再確認と強化

 右の東大「確認書」を受けて、駒場寮については、教養学部長と駒場寮自治会との間で、1969年3月1日に「確認書」が締結され、以下の内容が確認された(乙23、成瀬証人・50〜51頁)。
「一 学寮が厚生施設としての役割を果して来たことを認め、その役割を発展させる立場に立って寮生の経済的負担を軽減するよう努力する。
 一 寮問題の重要性を認識し、寮生の要求の実現のため真剣に努力する。
 一 教養学部長は、駒場寮自治会を学生自治団体として認め、駒場寮自治会から要求があった場合には、誠意をもって、交渉に応ずる。」
 また、1969年6月28日には、東京大学の学寮の自治会の連合体である東大寮連と大学の学寮委員会との間で「確認書」が取り交わされた(乙2の1、2)。右確認書では、「入寮選考は寮生が行う」こと、「大学側は寮生による入寮選考委員の決定と入寮選考の結果については干渉しないこと」および「大学当局は寮生の正当な自治活動に対する規制ならびに処分は行わない」ことなどがあらためて確認された。
 これら結果、駒場寮自治会が正式に学生自治団体として公認され、それ以前には形式的に出されていた入寮者に対する教養学部長名の「入寮許可証」もこの頃から発行されなくなった(成瀬証人50〜52頁)。
 このように東大闘争による「確認書」とその後の寮自治会と当局との確認書により、寮自治会の管理運営権は明文による合意を持って強化されたのである。

5 84年負担区分合意にみられる寮自治の確認

(1) 負担区分問題の発端

 文部省は、前述の1960年代末の学生運動の高まりと学生自治拡大の動きに危機を抱き、1971年の中央教育審議会答申において「学寮は紛争の根元地」であるとして、大学の自治と民主主義を求める運動をなしていた学生寮を敵視する政策を採るに至った(浜林意見書)。
 さらに、1975年以降、新しい大学寮の建設に際して、寮生による自治を事実上否定するいわゆる新々寮(文部省によれば「新規格寮」)政策といわれる政策をとっていた。この政策は、@全室個室、A寮食堂は付置しない、B管理運営責任の明確化、C負担区分の明確化を主な内容とするものであり(乙59)、駒場寮のような寮生の自治にもとづく自主管理とは、全く相反するものであった。
 さらに、文部省は、1979年頃から各大学に対して右の負担区分通達にもとづく水光熱費の負担区分の明確化を強く迫るようになった。
 それを受けて、1979年に向坊総長(当時)が寮生や駒場寮自治会に対する事前の説明・協議を全く行わないまま会計検査院に対して負担区分の「改善」を約束した。そのことが1982年に判明し(乙10の1添付資料3、成瀬証人・6〜8頁)、駒場寮自治会は、負担区分の内容に加えて、大学当局が学生自治を無視したことを大きな問題として追及し、約一年間にわたって、水光熱費の負担区分をめぐる交渉が教養学部と駒場寮自治会との間で行われた。

(2) 負担区分問題をめぐる教養学部当局の基本的姿勢の変遷

 駒場寮の負担区分問題について、教養学部当局は、基本的に文部省の方針には反対する立場をとっていた。1982年1月25日に行われた駒場寮自治会と第八委員会との交渉の場では、以下の四点が教養学部当局の認識として口頭で確認されている(成瀬証人・11〜12頁)。
ア 負担区分通達は遺憾なものである
第一に、全国一律の基準を機械的に適用するものである
第二に、大学の自治になじまないものである
第三に、受益者負担主義により、寮生の負担が増大する
イ 今後の駒場寮の負担区分を考えるに当たっては、2・18通達とらわれることなく、駒場寮の特殊性に沿って合理的にこれを定める
ウ 概算要求を伴う要求事項については、負担区分問題解決後、速やかに実現するよう双方が努力する
エ 今後新たな文部省の介入があった場合には、双方協議して対処する
 ところが、1983年5月に開催された国立大学学生部次長課長会議では、同年中に右通達にもとづく負担区分の「適正化」を図ることが強調された。これを受けて、東京大学教養学部も、同年7月以降は、前記の確認から逸脱し、寮自治会に対して、「募集停止」すなわち廃寮の脅しもかけて、当局の提案を受け入れさせようという不当な態度をとるようになった(成瀬証人・8頁、乙11添付資料、乙62、乙63)。

(3) 負担区分合意と確認事項の意義

 しかし、その後のねばり強い交渉の結果、学部当局も最終的には本来の姿勢に立ち返り、1984年5月24日に、学部当局と寮自治会の間で、水光熱費の負担区分に関する合意書および確認事項が締結された(成瀬証人・12〜13頁、乙3の1、2)。
 右文書は、駒場寮における教養学部当局と駒場寮自治会の合意にもとづく寮自治の内容をあらためて確認するとともに、駒場寮の管理運営ついては、今後とも教養学部と駒場寮自治会が寮自治の精神にもとづいて処理していくことを定めたものであった。以下、合意書および確認事項の内容にそって、合意の内容とその意義を指摘する。
1) 大学自治内の解決
 合意書第1項は、「寮生は寮生活に伴う水光熱費の一部を駒場寮独自の基準による別紙の実施細目にもとづいて決定する」とし、確認事項第2項は、「合意書の第一項の基準に関する議論のなかで、寮委員会側は、水光熱費の負担区分はいわゆる2・18通達を前提とすべきではないと主張し、第八委員会側は、それが駒場寮独自の方式に基づくものであることを強調した」と記載されている。
 この条項は、駒場寮の水光熱費の負担については、文部省の通達にとらわれず、駒場寮の特殊性に配慮して、大学内で自主的に決めるという大学自治の原則的な考え方が盛り込まれているものである(成瀬証人・15頁)。
2) 学生自治と寮自治の尊重
 確認事項第1項では、「第八委員会は従来からの大学自治の原則を今後も基本方針として堅持し、駒場寮における寮自治の慣行を尊重する。」ことが確認されている。
 ここでいう「大学自治の原則」とは、1969年の東大確認書で合意された「全構成員自治」、すなわち、学生も「固有の権利」をもって大学自治を形成する主体であることおよび学生生活に関わる重要問題は、大学当局と学生との交渉によって解決するというルールをさしている。また、「駒場寮における寮自治の慣行」とは、前述した合意にもとづく駒場寮自治会の管理権限を指している(成瀬証人・17頁)。
3) 大学の意思決定に際しての寮生の意見の把握と大学への反映
 確認事項第3項では、「寮生活に重大なかかわりを持つ問題について大学の公的な意思表明があるとき、第八委員会は、寮生の意見を充分に把握・検討して、事前に大学の諸機関に反映させるよう努力する。」ことが確認されている。
 この条項は、直接には、前述の向坊総長(当時)が、寮生との事前の説明・協議も行わないまま、会計検査院に対してした負担区分の「改善」約束が大きな問題となったことをふまえて確認されたものである。
 この条項は、前述した大学自治の原則をさらに手続面で具体化したといえるもので、概算要求も含め、大学が対外的に意見表明を行う場合は、事前に寮生の意見を把握・検討し、諸機関に反映させるための努力をつくすということを意味するものである(成瀬証人・21頁)。
 この条項を素直に解釈する限り、本件のように駒場寮の廃寮を前提とする概算要求を寮自治会との事前の交渉抜きで行うなどということはおよそ考えられないのである。
4) 文部省の廃寮攻撃への反対
 確認事項第5項では、「第八委員会は、新入寮生募集停止の措置を望むものではない」という確認がなされている。
 この条項は、合意に至るまでの間に、学部が「募集停止」や「廃寮」を持ち出して脅迫めいたやり方を行ったことに対する反省・謝罪を示すとともに、今後、文部省から圧力がかかった場合の学部の基本的立場、すなわち、廃寮には反対であることを明らかにしたものである(成瀬証人・25頁)。

(4) 寮の管理運営に対する学部の認識

 文部省の寮政策に対しては、当時の教養学部の教授らは、共同生活という教育的効果の面、寮生の経済的負担が増大するという面、そして何よりも自治寮という理念に反するとして、明確にも批判的意見を表明していた(成瀬証人・27〜28頁)。
 このような考え方に立って、教養学部当局は、文部省の政策にしたがった寮の建て替えではなく、駒場寮を修繕しながら長期に使用していくという方針を決定していた。このことは、当時の菊池昌典第八委員長の引き継ぎメモに「駒場・三鷹の存続可否の長期プラン作成において、老朽化→廃寮ではなく、改修→長期化を選択した」との記載があることからも明らかである(乙24)。この方針には、駒場寮の構造からして、補修すれば20から30年は十分に使用できるという裏付けがあった(成瀬証人・29〜33頁)。
 今回の駒場寮廃寮、文部省の方針にしたがった三鷹国際学生寮の新設という決定は、このときの教養学部の方針にも明らかに反するものである。

(5) 合意にもとづくその後の寮の管理運営

 水光熱費負担の実施細目はその後何回か変更されているが、その都度大学と寮生の合意にもとづいて変更されてきた(乙25〜28)。
 そのほか、1987年には、寮の浴室の移設についても交渉・合意のうえ実施することを確認している(乙29、30、成瀬証人・33〜35頁)。
 また、学部は、昭和59年度概算要求の資料(乙10添付資料4)を寮生に開示したり(成瀬証人・22〜23頁)、負担区分合意後に「照明倍化・電気容量三倍化については予算獲得の努力をしている」と述べるなど、大学の意思表明について事前に寮生の意見を反映させる努力も現に行われていた(成瀬証人・32〜33頁)。
 1994年4月16日の駒場寮33時間連続停電の際も、教養学部学生委員会の宮下委員長は、駒場寮自治会に知らせることなく、このような長期の停電措置を執ったことについて、「84年3月20日の確認事項3を十分尊重しなかったことを認め、反省する」旨の書面に署名押印しており、84合意書の規範性が確認されている(乙33号証、==本人尋問調書 21頁)。
 1994年に教養学部内部の学習会で使われた資料(乙201)でも84合意書に規範性は前提とされている。


第8へ