4月19日第6回口頭弁論報告
第2 本件は大学の自治による解決に委ねられるべき事案(本案前の抗弁)
1 本件は司法審査になじまない
本件は憲法23条によって保障された大学自治の享有主体である東京大学が、大学自治の原則による解決を放棄し、その学生で構成する学内自治団体である駒場寮自治会をはじめとする学生らを被告として、裁判手続により建物明渡を求めた事件である。
本件をこのような形で解決することは、司法審査の限界を超えるものであって、不適法である。
ところが、原判決は、以下のような理由で控訴人らの主張を斥けた。
「本件訴訟は・・・廃寮となった本件建物を被告らがなお寄宿寮として使用することができるかという私法上の当事者間の具体的権利義務関係の存否に係る紛争であるから、東京大学内の内部的な問題にとどまらず一般市民法秩序と直接の関係を有することは明らかである」(原判決65頁)
しかし、原判決の論理に立てば、駒場寮の所有者である国が一方当事者として控訴人らと対峙することになる。そこには、以下に述べる誤りがある。
第1に、駒場寮の管理運営をめぐる関係は、政府・文部省の大学・学寮政策との対立・緊張関係を背景に持ちながら、大学自治の内部において大学当局と駒場寮自治会との合意に基づいて形成されてきたものである。即ち、政府文部省と大学、学生という主体間での緊張をはらむ関係の中で形成されてきたものである。これをこれを原判決のいう当事者、即ち、国と個々の控訴人との法律関係に単純化することは、まさに事実から離れた空論というほか無い。
第2に、原判決によれば、大学は駒場寮の所有者である国の権限行使の単なる「補助者」ということになってしまう。これは、本来、国と一線を画すべき立場にある大学が国と一体となることであり、時の権力からの独立を趣旨とする大学の自治の否定につながる。
第3に、右に述べたことからすれば、駒場寮の管理運営をめぐる問題は、大学自治(憲法23条)にもとづき国とは異なる自主規範を有する大学内部で自律的に解決されるべき問題であり、司法審査にはなじまないのである。
以下、詳論する。
2 大学自治と司法権の限界
(1) 法律上の争訟の要件
憲法は、「すべて司法権は・・・裁判所に属する」(76条1項)とし、裁判所法はこれを受けて裁判所は「一切の法律上の争訟を裁判」(裁判所法3条)すると規定する。
「法律上の争訟」といえるためには、@当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であることのほかに、Aそれが法令の適用により終局的に解決することができるものであることを要するとされている。
すなわち、形のうえでは具体的な権利義務関係ないし法律関係の存否をめぐる争いであっても、訴訟物たる権利義務ないし法律関係の存否の前提問題として判断せざるをえない争点が裁判所の審判になじまない場合には、結局、紛争全体が法令の適用により終局的に解決するに適さないものとして、「法律上の争訟」にあたらず、裁判所の審判権は及ばない。そして、裁判所の審判権にこのような限界があることは異論のないところである。
(2) 自律的法規範を有する社会ないし団体内部の法律上の紛争と司法権
「法律上の争訟」にあたらない典型的な事例は、自律的な法規範を有する社会ないし団体の純然たる内部規律の問題として、当該社会ないし団体の自治的措置に任せられるべき紛争である。
すなわち、自律的法規範を有する社会ないし団体の内部における法律上の紛争については、当該紛争が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる場合には、その社会ないし団体内部の自治的、自律的解決に委ねるのを相当とし、法令の適用によっては終局的に解決することのできないものとして、法律上の争訟にはあたらないとされている(最高裁大法廷1960年10月19日判決、最高裁1989年9月8日判決など)。
この団体の自治権ないし自律権は、一般には憲法21条の結社の自由から導き出されるが、国立大学を含む大学については、憲法23条が保障する学問の自由と大学の自治から導き出されるものである。
団体内部の自律的規範の問題として司法審査をなし得ないかどうかの実質的判断は、その自治権の意義・性質に関わるので、大学自治について歴世的経緯に遡って以下に詳論する。
3 大学自治と学生自治の意義
(1) 大学自治の歴史的意義
大学の自治は、中世のヨーロッパで、ローマ教皇や領邦君主の統制に対して学者や学生らが大学の自主権を守ったことから発生したが、その後、近代国家の成立と権力の集中のなかで、19世紀以降は国家権力に対抗する理念・制度として発展した。
こうした歴史的経緯から、大学自治は大学における研究教育活動に直接携わる教授層の自治を中核として理解されてきたが(教授会自治)、20世紀、とりわけ第二次世界大戦以降は学生数及び教職員数の激増、大学自治の処理する事項の広がりと増大、大学内部の官僚的管理運営の強化の中で、大学構成員全員の参加を求める大学自治の民主化要求が世界的に高まり、各国で大学の管理運営への学生参加などの民主化が実現されていった。
(2) 日本国憲法のもとでの大学自治
他方、近代国家以前に大学が成立したヨーロッパと異なり、近代国家によって大学が創設された日本では、大学の自治及び学問の自由は受難の歴史であった。
学問の自由は、それ自体の内在的論理をもって存在する真理の探求にかかわり、人類文化と平和の創造にとって格別の意義をもつものである。そして戦前の日本においても、大学の自治は、右の真理の探求のために必要不可欠な制度とされていたが、「天皇機関説」事件や滝川事件に代表されるように学問内容や、教官人事権をめぐる干渉・抑圧などの事例が数多くみられた。
日本国憲法は、戦前の社会のあり方に対する反省から、国民主権を明記するとともに広範な国民の基本的人権を保障したが、上記の歴史的経験に鑑み、憲法第23条は「学問の自由」そのものを保障した。
そして、大学における学問研究は、大学が国家権力その他の外部の権威から独立し、組織体としての自律性を保障されることなしには不可能であるそのために、憲法23条の「学問の自由」が「大学の自治」もその内実として保障していると解されている。
最高裁第3小法廷1977年3月15日判決・昭46(行ツ)52号(民集31−2−234)は直接大学の自治という言葉は用いていないが、大学の成績認定行為について司法審査をなし得るかに関して、大学の学問研究機関としての特殊性に言及しており、大学の自治を意識したものと言える。
さらにいえば、裁判所の行う司法判断は、政治部門である国会が制定した法規範の解釈である。これに対し、大学が自治にもとづいて設定する自主規範は、既存の権力や政治的力関係とは独自の視点から、すなわち、学問的真理の探究という見地からなされるものである。そして、大学が学問的真理を追究する立場から行った判断が、既存の法律秩序やときの政治的力関係による判断と双反することは十分ありうることである。この場合に、大学の自主的な判断が、権力機関によって歪められることがあってはならないとというのが、大学自治の本質的な意義である。
だからこそ、最高裁判決も、「大学は、国公立であると私立であると問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な権能を有」するとして、大学の自主的判断を尊重すべきとしているのである(上記最高裁判決)。
ところが原判決は、「大学の自治は憲法上の学問の自由に含まれる制度的保障であると解されているとおり、法的な概念であり、裁判所は・・・判断できないとするいわれはない」(原判決66頁)と判示しており、上記最高裁の判例に真っ向から反しているのである。
(3) 大学の自治と学生の地位
この「大学の自治」の内容として、@研究教育作用実現の自治、A人事・施設管理の自治、B予算の自治などがあげられ、教授会など教授その他の研究者が大学自治の享有主体であることは異論がない。
問題は、大学自治において占める学生の地位をどう解するかということである。
憲法第26条では、「教育を受ける権利」が保障され、大学教育を受けることは特権的あるいは恩恵的なものではなく、国民に等しく保障される権利であることが確認された。さらに学生も教授の指導の下に研究に従事する存在であること(学校教育法58条5項)とされた。
こうして、日本国憲法のもとで、学生の立場は、一方的に学問を教授される受動的なものにとどまらず、学問研究の一翼を担う主体と位置づけられたのである。
このように、学生が「学問研究の自由」と「真理教育を受ける権利」を共有する主体であることから、大学自治における学生の固有の自治が導き出される。そして、学生の固有の自治を認めるということは、学生が「組織体としての大学の運営に対して、一定の発言権・参加権を有する」ことを認めることにほかならない(小林直樹・『憲法判断の原理』上巻・177〜178頁)。今日では、学生は大学の運営に意見をのべる固有の権利を有するものと解する見解が趨勢である(佐藤幸治「憲法」など多数)。
1960年代末の大学自治をめぐる問題提起と紛争を経て、裁判例においても学生の自治に関する新しい判断がなされるようになった。
@ たとえば、大学紛争中の行為を事由としてなされた学生懲戒処分の効力が争われた東京教育大学事件では、結論として原告(学生)の請求は棄却されたが、裁判所は理由中において次のとおり判示している(東京地裁1971年6月29日判決・判例時報633号23頁)。
「これまで、大学構成員としての学生の自治の位置づけが不明確又は不適切であったことが・・・今時大学紛争の主要な原因のひとつとなり、大学制度の改革を押し進めるにあたり、学生の参加の問題が優先的にとりあげられている公知の事実に徴すれば、大学の自治における学生の参加の問題は、現下の事態を予測しないで制定された前記諸法令の文理解釈のみによって容易に片づけられるものではなく、大学改革の進展と大学のおかれている社会的諸条件の改善に応じ、学生自らの努力と、これに対する大学当局の謙虚な態度に支えられて、新しい大学の自治の中に築き上げられてゆくべきものというべきである。」
A また、大学長等を監禁したとして学生らが起訴された芝浦工業大学事件では、裁判所は以下のように述べて無罪を言い渡している(東京地裁1972年5月30日判決・判例タイムズ279号304頁)。
「ところで、大学は教育機関であると同時に研究機関でもあることは自明のことであるが、そこにおいては教育は研究と一体不可分の関係においておこなわれるものであって、学生は単に教育を受ける対象という受動的な地位にとどまるものではなく、そこに学びかつ研究し、学問研究の一翼を担う者として存在し、このためには自由かつ自主的な精神と、批判的態度をもって研究にあたり、学問に取り組み、真理探究の方途を体得することが要求されているものといわなければならない。従って、学生に対しても、教授会の自治に照応し、相当の範囲内においてその自治が認められるべきである。
このように、学生にも大学自治の主体として固有の権利を認めることは、「そうした経過を経た今日の『常識』を示すもの」といえる(前記小林・178頁)。大学の学問の自由と自治の主体を「教授その他の研究者」に限定して、学生を単なる大学の営造物の利用者としてとらえるという東大ポポロ事件最高裁判決の考え方は、すでに過去のものとして否定されているのである。
また、国際機関たるユネスコは、1998年に「21世紀にむけての高等教育世界宣言」を採択したが、その中で「学生を高等教育における関心の中心にすえ、その当事者の一員と認めること」、「学生が自らを自治的に組織する権利を持っていることを認識すること」と述べており、前述の見解は国際社会における常識となっている(浜林意見書)。
そのもとで、学生が自治の主体的構成者として大学の管理運営に対する参加権をどの程度もつべきかどうかは、それぞれの大学が自主的に決定すべきことがらであって、国法により当然に決せられるものではない。すなわち、学生の大学の管理運営に対する権利の具体的内容は、それぞれの大学で設定された大学内の運営に関する規範によることとなるのである。
以下、東京大学における自治規範の確立の過程を詳論する。
4 本件紛争に司法権は及ばない
(1) 寮自治は大学の自主規範として確立
東京大学においては、いわゆる東大紛争の歴史を経て、法律上権限を有する教授会と学生自治会や駒場寮自治会などの学生自治団体との間で、学生に大学運営に対する参加権を保障することを内容とする「東大確認書」をはじめとする多数の協定が締結されてきた。
本件で問題となっている駒場寮の自治も、長年にわたる大学と学生との交渉を経て形成された合意と信頼関係を基盤に確立されてきたものである。
すなわち、駒場寮の自治は、大学が自治権にもとづいて自律的に決定した大学の管理運営に関する自主規範にほかならない。前述した「大学の自治」に関する今日の判例学説の趨勢に照らせば、東京大学はこれらの自主規範にしたがって駒場寮の管理運営を行うべきことになる。
本件の被告である駒場寮自治会が駒場寮についてどのような権限を有するかということは、本来、大学が自治にもとづいて自律的に規範を設定し、この自主的規範に沿って取り扱われるべきことがらである。つまり、かかる権限の有無に関する意見の相違は、まさに「自立的な法規範を有する社会ないし団体の純然たる内部規律の問題」であるから、「法律上の争訟」にはあたらないというべきである。
以下に、学生自治展開の歴史的事実の中での東大における右自主規範の確認について、詳論する。
(2) 東大「確認書」と学生自治
1) 駒場寮の自治自体は、戦前から脈々と受け継がれてきたものである。 しかし他方で、1960年代までは、大学当局の中には、大学の自治を享受する主体は教授会にかぎられるとの考え方が根強く残っていた。
これに対し、1960年代末から全国の大学で発生したいわゆる「大学紛争」は、旧来の「教授会自治」のあり方を問い、大学自治の固有の担い手としての学生自治の承認を求めるところにその本質があった。
2) 東京大学でも、前述した1969年1月10日のいわゆる七学部集会において、学生と大学当局との間で、26項目の「確認書」が結ばれた(乙1)。
この「確認書」の中では、「大学の管理運営の改革について」、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が現時点において誤りであることを認め、学生・院生・職員もそれぞれ固有の権利をもって大学の自治を形成していることを確認する。」ことが明言されている。
同年2月9日、「確認書」の審議を終えた評議会は、あらためて以下のような見解を表明した(乙1)。
「(ア) われわれは、大学の自治は教授会の自治であるという従来の考え方が、もはや不適当であり、学生・院生、職員も固有の権利をもち、それぞれの役割において大学の自治を形成するものと考える。
(イ) われわれは、各学部及び各系の学生自治組織ならびにそれらによって承認された全学組織を公認する方針をとるとともに、これらの組織の交渉の要求には、誠意をもって応ずる。・・・」
こうして、東京大学では、学生も「固有の権利」をもって大学自治を形成する主体であること(全構成員自治の原則)が大学自治の原則として確認され、学生生活に関わる重要問題は、大学当局と学生との誠実な交渉を通じて解決するというルールが確立されてきたのである。
重要なことは、東京大学においては、大学自治における「学生の固有の権利」が「確認書」という形で学生と大学との間の双方を拘束する明確な合意とされ、大学の自主規範として認められることである。
駒場寮の自治も、この東大確認書に示された学生自治によって強化され、強う自主規範性を有するものである。したがって、その効力の存否の判断を裁判所がなすことは、まさに司法権の限界を超えて「大学の自治」の核心に裁判所が踏み込むものであって、許されないというべきである。
(3) 一般市民法秩序による解決はなじまない
1) 原判決は、一般の建物所有者と占有者の法律関係と同様ものとして、駒場寮所有者の国と被告らの関係を論じている。しかし、原判決の論理は、そもそも駒場寮の管理運営をめぐる関係の誤った認識にもとづくものである。
駒場寮の管理運営は、単純に所有者と個々の占有使用者との関係で論じられるものではない。所有者である国(文部省)と大学自治を根拠に国とは独立した立場にあると認められている大学、そして、大学の構成員である学生および駒場寮自治会との間の対立と協調という緊張をはらんだ関係のなかで論じられるべき問題である。
駒場寮の管理運営をめぐる問題は、つねにときの政府・文部省の政策とこれに対する大学自治の立場からの対抗という関係の中で生じ、解決されてきた。そして、大学は、学生の運動を背景にして、政府・文部省の政策とは一定独立した立場に立って寮問題の解決を図ってきた。このような大学の姿勢の根本にあるのは、大学が時の権力者からの介入を排除して独立性を保たなければ、学問の自由が圧殺され、ひいては国民の人権や民主主義が危機に瀕するという、大学自治の担い手としての自覚にほかならない。
いみじくも、浜林一橋名誉教授は、大学のとるべき行動について、「もし、大学当局がこういう(東大)確認書の立場を今なお堅持しているのならば、今回の駒場寮問題のような問題が生じた場合には、大学当局は学生と対立するのではなく、むしろ学生と一体となって文部省と交渉すべきではないでしょうか。」と述べているのである。
従って、駒場寮問題を所有者である国と占有使用者である控訴人らの間の法的紛争という枠組みの中で解決しようとすることは、駒場寮問題の紛争の実態にそぐわないものである。
2) さらに、これは、大学が国に対する独立性・自主性を自ら放棄するものであって、大学自治の自殺行為である。
たとえば、本件訴訟において、原告である国は、学生が大学の営造物の利用者にすぎないという旧来の考え方を主張しているが、他方で、大学側の責任者である永野証人は、東大確認書の意義を認め、以下のように証言している。
「いわゆる教育的処分は行わないということ、あるいは教授会の自治が大学の自治であるという認識は誤りであったという認識、それから、教職員、学生、院生がそれぞれの固有の権利を持って自治を形成しているということが大きな特徴だと思います。」(永野証言・16頁)
このように、大学自治における学生の地位という本件の本質的な争点について、原告である国と大学が全く相反する見解を表明していることは、本件訴訟がいかに紛争の実態とかけはなれたものであるか、を端的に示している。しかし、大学は、本件訴訟で自体の解決を図ろうとする以上、右の国の論理に乗らざるを得ないのである。
(4) 本件は原判決引用の判例とは事案を異にする
以上の主張に対して、原判決は、1977年3月15日最高裁第三小法廷判決・昭46(行ツ)53号を引用して、司法審査は可能であるとする。
しかし、右判決は、国側が大学自治を主張して司法審査をなさないことを求めた事件についてのものであるから、訴訟追行の過程や判決に基づく執行の過程で国と大学が一体化し、大学自治が侵害されることはない。その点で、国と大学が一体化して大学自治の自殺という事態が生じている本件とは明らかに事案を異にするものである。本件は原判決引用の判例よりもいっそう司法審査を及ぼすべきでないと言えるのである。
従って、一般市民法秩序の枠内か否かについても、右判決と本件とは異なる判断がなされるべきである。
(5) 大学自治の原則に反する東大当局の対応
1) 過去にも学生寮の明渡請求訴訟がいくつか提起されたことがある。しかし、これらは、いずれも一部の学生や学外者の暴力的占拠によって、寮の管理運営権限の所在を論じる以前の問題として、寮の正規の管理ができないようになった事案である。これらの訴訟は、いわば駒場寮自治会と大学とが一体となって正常な管理を回復する営みの一つであったと評価できる。
これに対して、本件は、駒場寮自治会の管理運営(占有使用状況)には特段の変化や問題が生じていないにもかかわらず、大学側が駒場寮自治会の従来の管理運営権限を一方的に否定したことから生じた問題である点で、右の事案とは決定的に異なっている。
2) 即ち、東大当局は前述の全構成員自治のルールを全く踏みにじり、1991年10月9日、学生自治会及び寮自治会の同意を得るどころか事前の協議すら行わないまま一方的に駒場寮の廃寮を決定した。そして、右決定後は、学生の意見に耳を貸そうともせず、1995年10月17日の教養学部教授会および東京大学評議会で、1996年3月31日をもって駒場寮を廃寮とする告示をなすことを一方的に決定した。
しかも、東大当局は、駒場寮を廃寮とした直後の1996年4月8日には、多数の寮生が現実に生活しているにもかかわらず、電気・ガスの供給を止めるという暴挙に出て、寮生を実力で立ち退かせようとした。
本件が廃寮決定後長きにわたり解決を見ない理由は、大学当局が自らが確認した全構成員自治のルールを踏みにじり、理性の府たる大学にあるまじき強引かつ強権的な方法で廃寮を強行しようとしていることにある。
本件において大学当局は大学自治による解決を放棄して訴訟による解決に訴えたが、そのこと自体が大学当局の対応が学生をはじめ全大学人の支持を得られる正当性を有していないことを示すものにほかならない。こうした大学当局の姿勢は大学自治の基盤を自ら破壊するものである。
大学当局は「確認書」の原点にかえり、全構成員自治のルールに則り、廃寮決定を既成事実として押しつける態度を改め、学生自治会及び寮自治会との誠実な話し合いによる解決の道を模索すべきなのである。
3) 本件の核心は、大学と学生との間で長年にわたって確立されてきた寮自治を大学側が一方的に否定・消滅させることができるかどうかという点にある。これは、まさに大学内部の意思決定に関わる問題であり、現在駒場寮を占有使用している寮生に明渡を命じるかどうかというレベルではなく、大学と駒場寮自治会の団体間の交渉によって解決するしかない性質の問題である。
(6) 本件は話し合いで解決すべき問題である
以上述べたとおり、本件は、そもそも通常の明渡訴訟の類型にはなじまない大学自治内部の問題であり、訴訟ではなく、大学内の話し合いによって解決されるべきものである。
本件紛争を裁判によって解決すべきでないということは、控訴人らだけが主張しているわけではない。東京大学教養学部の教授の中にも、駒場寮問題を訴訟によってではなく、大学内部の話し合いによって解決すべきとの意見は、強く存在している。
このことを示しているのが、平野、平澤、杉浦の三教授による話し合いによる解決の提案である(被告須藤・16〜17頁 乙79)。また、前述した西村元教官をはじめ、小川晴久教授(乙12の1〜6)、高橋宗五助教授(乙8)、宇沢弘文元教授(乙13)、小出昭一郎元教養学部長(乙35)らも、東京大学が裁判という手段を用いて本件の解決を図ろうとしていることに強い危惧の念と批判の意を表明しているところである。
例えば、小出昭一郎元東大教養学部長は以下のように主張している。
「駒場寮の問題をめくって大学と学生が対立し.裁判所のお世話にならざるをえなくなっていることに、心を痛めているところです。・・・できれは両者が粘り強く話し合って円満に解決してほしいと願うところです。それが自治を国民から負託された学門の府としての大学にふさわしい問題解決のやり方だと思っております。」
また、石井郁子参議院議員への文部省担当者の回答(乙103)によれば、文部省は、駒場寮廃寮問題について、大学の自治の範囲内の問題であり、学内問題であるという認識を有している。
文部省自体、その本音はともかくとして、既に1994年12月19日の全寮連の文部省交渉においても、東大駒場寮について文部省として廃寮にすべきといった正式な指導はしていないことを言明しており(乙115)、前年8月10日に行われた全寮連による文部省要請行動の際にも、全寮連が、文部省の学寮担当者に対して駒場寮問題について質問したところ、やはり、大学自治の範囲内の問題であり、学内での話し合いによる解決が望ましい旨回答したというのである(乙116)。
被控訴人がこうした文部省の認識に立つならば、裁判による解決を強行せず、学内での話し合いを保障する措置を取るべきである。
一方で、駒場寮自治会は、いまなお整然と寮内を管理し、学生による自治を正常に執り行っており、これまで構成員一同思想信条の違いを超えて団結して、大学当局に対し話し合いによる解決を一貫して迫ってきた。現時点においても本件問題に関して司法審査を排し、話し合いによる解決にいつでも応じるという姿勢に何ら変わるところはない。
(7)
以上の理由により、本件訴えは不適法なものとして却下されるべきである。
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