(1) 神長意見書(乙165号証)は、裁量の濫用論に関わる最高裁判例の動向からすると、本件における学長の裁量的廃寮処分の適法性についても検討する必要があるとしており、以下の検討要素を挙げている。
@適正手続違反がなかったか
Aその判断過程において考慮すべき事由を正当に考慮していたか
B考慮すべきでない事由を不当に考慮していなかったか
この観点から検討すると、国有財産法14条及びそれを受けて文部省所管国有財産取扱規程28条は、国民の財産である国有財産・行政財産・公用財産の用途廃止について慎重な手続を採用し、部局長の用途廃止権限に関わる恣意的な権限行使を統制する趣旨から、所轄大臣への申請を要するとしている。この点から用途廃止は文部省所管国有財産取扱規程28条に基づくことが原則であり、同規定34条は、一般的には軽微な用途の廃止が予定されている。
ただ、軽微ではないが34条による場合として、国立大学における大学の自治に配慮してその自律的な用途廃止の在り方を認めている場合もあり得る。
もっとも、その場合、大学自治を踏まえた閉鎖的でない「行政運営における公正の確保と透明性」(行政手続法1条1項)がなければならない。
その判断要素として、学内手続における「公正の確保と透明性」即ち、学長の廃寮決定処分(告示)に至る手続的適正さ(公共性)がある。その内容としては、文部大臣との関係、大学組織上の関係、駒場寮自治会との関係における手続がどう適正に実施されたか、を厳格に検討すべきである。34条適用に基づく学寮廃止の場合、学長に対する法の実質的拘束力はむしろ強いのである。
以上を前提として本件において適正な手続がとられていたかを検討する。
1) 駒場寮は使用に耐えないほど老朽化していない
「国有財産の取り壊しについて」(乙105)によれば、本件廃寮決定が文部省所管国有財産取扱規程34条3号(使用に耐えないため取り壊す場合)によったと考えられるが、駒場寮が使用に耐えないほど老朽化している事についての客観的データは何もない。
逆に、前述したように本年3月21日に実施された駒場学寮コンクリート強度等調査によって、駒場寮建物のコンクリートの強度には何の問題もなく、適切な補修により今後長期にわたり使用に耐えることが証明されたのである。
「東京大学大学院総合文化研究科・教養学部概要2000年度版」(乙102)を見ると、駒場キャンパス内には、駒場寮と同時期の1930年代に立てられた一号館(時計台)及び講堂(900番教室)、図書館の一部、101号館が現在も重要な用途に使用されていることがわかる。
駒場寮が当時同様の経緯で造られた建物であることは「様式美の挽歌」(内田祥三年譜)からも明らかである(乙106)。
この駒場寮等の建築を担当した内田祥三は、耐震建築構造の権威であり、後に東大総長も務めた人物である。
駒場寮と同時期、建築された建物が今後も使用が予定されていることからも、建築されてから長期間経過したということは、決して駒場寮廃寮の根拠とはならないのである。
すでに述べたとおり、1984年の水光熱費の負担区分に関する合意をした時点では、大学も駒場寮の長期利用という方針を確定していた。
かように、大学側も、駒場寮が老朽化して使用に耐えないとは考えていなかったのである。
2) 駒場寮の耐久性が明らかとなった建築士による調査結果
1996年5月8日、教養学部学生自治会正副委員長と駒場寮委員会が共同して一級建築士に依頼して駒場寮の診断をしてもらったところ、概ね以下のような報告を得ている(乙14の2 添付資料9)。
駒場寮は、対称的な構造を持つ、レギュラーな建造物で、かつ水平面積の大きさ、けた外れの柱の多さから判断すれば、耐震性も強い。建物は、梁が多く、骨組みが非常にいい。今見ても本体の亀裂が見あたらないのは、素材で使っている砂が良質であることを示している。なお、窓の周りのヒビは、コンクリート本体のものではなく、二次的なものである。
長期に使う場合は、建物が新しい機能に対応できる柔軟性を持っていることが必要だが、駒場寮はこの点でも高く評価できる。特に各階の高さが3.6メートルと通常の1.5倍程度確保されているので、各種のパイプ、ケーブルをしくことが可能で様々な機能に対応できる。
以上の点から、数十年置きにメンテナンスを行えば、数十年は十分使用に耐えると考える。
高い天井に、分厚い壁、窓からは豊かな緑、建造物としては大変豊かなものであり、効率を追及する現代ではなかなか望めない建物である。
前述した「学生の皆さんへ」(乙198)には、駒場寮が使用に耐えないなどとは一言も書いておらず、三鷹国際学生宿舎の建設の進行のみが入寮募集停止と廃寮の条件としてあげられている。
これらの事実は、駒場寮の廃寮が決して使用に耐えないかどうかを調査した結果によるものではないことを示している。
3) 駒場寮廃寮の不法な意図
しかも、駒場寮廃寮決定は、駒場寮が使用に耐えないことを理由としてなされたものではない。
それは、原審で永野証人自ら、廃寮の理由として「東京大学を新しい大学に刷新していく」ことや「キャンパスの再開発」の必要性を述べていることからも明らかである(永野証言・45頁)。
さらに言えば、東大教養学部当局は、政府・文部省の低文教政策と教養学部解体の脅し、および予算誘導の前に屈服して、前述した文部省の学寮敵視政策(「学寮は紛争の根元地」とする1971年の中央教育審議会答申)を受け入れてなされたものである。
この控訴人の主張について、被控訴人は「控訴人ら独自の見解を開陳するに過ぎず、およそ理由がない」などと反論している。しかし、一橋大学名誉教授の浜林正夫氏の意見書での意見や、長く学寮担当の学生部専任教官を務めた西村氏が、陳述書(乙167)において、「駒場寮の廃寮は、60年安保の頃から「学寮は学生運動の拠点になる」として管理を強化してきた、文部省の意図が背後にあるのではないかと思われます」と述べていること、更に以下に詳述する点からも、決して右は独自の見解ではなく、むしろ理由がないのは被控訴人であることは明らかである。
かかる不法な意図による廃寮決定は本来の用途廃止の要件に反し、裁量権の濫用であることは明らかである。
4) 予算獲得の取引条件にされた寮自治
1988年に三鷹寮敷地の「不効率利用国有地」の指定を受けて、教養学部当局は、90年3月に駒場寮廃寮を抱き合わせとしない三鷹寮改築計画の予算を概算要求したが、文部省に拒否された。にもかかわらず、1991年に三鷹国際学生寮の建設の予算がつくことになったのは、永野証人も自認するとおり、大学が駒場寮の廃寮とセットで予算請求を行ったからである。これは、新寮の建設予算は自治寮の否定と引き替えでしか出さないという政府・文部省の学寮政策を大学が自ら受け入れたことを意味している。
現に学部当局者は、駒場寮の廃寮が予算獲得の条件であったことを再三公言している。
1991年11月8日付新寮建設問題資料集(乙178)によれば、10月24日の学部説明会において、学部当局は「文部省は駒場寮の廃寮とセットでなければこの計画に予算は付けない」と発言している。これは駒場寮廃寮が文部省の予算誘導によるものである事を示している。
また、1992年2月24日の駒場寮と三鷹国際学生宿舎特別委員会との団体交渉の席上で、学部当局は以下のように発言している(被告==7〜8・乙19・添付資料Dー5)。
「駒場寮という学寮は不要。学生宿舎が必要なんだ。駒場寮廃寮は予算獲得の道具だ。」
「駒場寮の建物を壊す予算など、駒場寮を潰したがっている文部省だったらいつでもでるはずだ。」
さらに、学部当局が廃寮決定以後に発表した文書にも、旧寮の改修には予算を付けないという文部省の学寮解体政策に学部当局が屈して、駒場寮の廃寮を条件に三鷹国際学生宿舎の建設を認めてもらったことが公然と語られている。
平成8年5月22日 東京大学教養学部 学生の皆さんへ四
「例えば、駒場寮を残すことは、駒場寮廃寮を前提に三鷹国際学生宿舎を作った以上、国家予算の仕組みからいって不可能なことです。さらに、駒場寮を維持したり改修することも、いわゆる旧寮には修復の予算はおろか満足な維持費すら出ませんから、とうてい無理なことです。そして、三鷹国際学生宿舎の建設が進んだ現段階となっては、旧駒場寮を残すための予算が付くことは全くありえないのです。
にもかかわらず寮を残せというような要求は、たとえそれが全学投票の結果に基づくものだったとしても、ないものねだりと呼ぶほかはありません。このまま寮を残せば、教養学部だけでなく東京大学全体が、国家予算を正しく執行しなかったものとして国民の批判を浴び、これからの大学運営が危うくなるといった事態にすらなりかねません。」(甲15・39頁)
これは、駒場寮廃寮について東京大学が政府・文部省の恫喝を受けていることを素直に認め、その恫喝を学生に転化している醜悪な事実を示している。
5) こうした事態を理解するためには、大学が兵糧責めにされたと言われる1980年代末から90年代にかけての政府・文部省の大学政策、とりわけ教養部解体の動きを見る必要がある。そこで、この点の事実関係をさらに述べる。
1989年9月、大学院設置基準が「改定」され、大学院博士課程の目的変更、大学院大学の設置を可能にする独立大学院、独立研究科条項の新設など、大学院重点化への道が開かれた。しかし、実際に大学院が重点化されるのは、「旧七帝大」など特定の大学に限られるのであり、大学間格差の一層の拡大を引き起こすものであった。
また、1991年7月に行われた大学設置基準の全面「改定」では一般教育と専門教育の区別が廃止され、一般教育の形骸化ないしは否定の道が開かれる一方で、大学評価制度も許容され、大学への新たな統制の道が開かれた。
一般教育に関しては、すでに1989年6月に経団連が「一般教養課程と専門教育の配分を見直し、学部、学科ごとの事情に即して一般教養を削減できるようにする」との提言を出しており、大学設置基準の改定には、こうした財界の意向が反映していると言える。 神戸大学はいち早く1991年6月の評議会で、教養部の廃止と教養部教官の各学部への分属を決定し、1993年には京都大学も教養部を廃止し、今日、教養(学)部が存続しているのは、国立大学では、東京大学くらいしか存在しなくなっているのである。
大学審・文部省は、こうした「大学改革」を各大学に押しつけつつ、兵糧責めとも言うべき大学予算の総額抑制を続けた。その結果、大学の研究教育施設の老朽化は、目を覆うほどになり、1991年5月31日には、有馬朗人国立大学協会会長(東大総長)を含む日本の主な大学・学術関係団体を代表する八人が、時の海部首相に、大学予算の増額を直訴すると言った「事件」まで起こるようになったのである。(「高等教育費充実についての要望」大学財政懇談会 乙83、84)。
政府・文部省は、この事態に対し、更なる学費値上げによる「受益者負担」と産学協同・民間資金の導入での打開を図り、大学「改革」の押しつけを続けたのである(乙85,86,87)。
駒場寮廃寮は、まさにこうした事態の下で決定されたのである。
6) 一部の幹部のみで計画を推進
さらに重大なことは、駒場寮の廃寮を前提とする計画が、一般の教授会のメンバーにも知らされないまま大学の一部執行部だけの判断で事実上決定され、この計画にもとづいて1991年年3月の予算要求と文部省との折衝が行われていたことである(原審永野証言・56頁〜63頁)。
この点については、永野証人自身も、何時このような方針が決定されたのか具体的に証言することができず、「想像するに、学部長室、学部長並びに評議員、あるいは第八委員長、学生委員会委員長等が集まってお決めになったことだろうと思います。」と証言するにとどまっている(原審永野証言・72頁)。
このように、大学当局は、教授会にさえも説明せず、秘密のうちに駒場寮廃寮を前提とする折衝を進めていたのである。このことは、教授会の民主的な運営という点からみても重大な問題である。この点で、廃寮決定に至る手続違反の程度はさらに悪質である。
7) 以上によれば、本件廃寮決定は、明らかに適正な手続きを経たものとはいえず、また判断過程においても重大な瑕疵がある。よって、裁量権の濫用であることは明らかである。
(2) また、神長意見書は、手続的判断のみならず、「実体的判断に関わる公共性」を強調している。
その重要な考慮事由として、東京大学における大学の自治と駒場寮の自治の実質を挙げている。
そして、最高裁も承認している行政法上の法律関係における信頼保護原則を引いて、学長と駒場寮自治会・寮生との間の「何らかの法律関係」において形成されてきた信頼関係を保護されるべき価値としている。
1) この信頼関係は、文部省学徒厚生審議会答申「大学における学寮の管理運営の改善とその整備目標について」(乙56)で、文部省からも意義を認めているものである。同答申は、まえがき五で「学寮の自治は、寮生の自主性の尊重と共同生活の自律的運営についての教育的意義にかんがみ、大学が全寮生を構成員とする学寮自治組織に信頼と承認を与えるところに存立の根拠を有する」と明確に言い切っている。
また、「第三章 学寮の管理運営の改善」の「1 学寮における学生自治の意義」においても、「全寮生が自動的に構成員となり、その総意に基づいて運営される学寮自治組織は、以上に述べた寮生の自主性と共同生活の自律的運営の意義にかんがみて、大学が積極的に信頼と承認を与えることは、存在に理由が見いだされるのである」と述べている。
同章の「2 学寮自治と学寮管理の関係」においても、「教職員と寮生との間に相互の信頼関係において学寮の運営が行われることが重要である」と述べている。
また、小出昭一郎元東大教養学部長も、「教官と学生の信頼関係というのは.大学の命ともいうべきものです。東京大学の今後数年、十数年の将来に大きな影響を及ぼします。」と述べている(乙35)。
ヨーロッパ大学史を専攻する櫻本陽一高崎経済大学講師は、その意見書(乙210)で、学生の自治と学生と教授会の信頼関係が果たす役割について、以下のように述べ、教育基本法にその根拠を求めている。
「大学においては、学生自身が主体的に学問に取り組み、また様々な経験を通して、自己形成を行なっていくことが期待される。それゆえ、学生が自主的団体や自治組織を形成し、大学当局と交渉し、合意を結び、それによって自らの要求を実現し、あるいは諸活動や諸施設などについての運営に責任を持つことは、大学における教育の目的にかなうものである。そして、このような形での学生の自主的諸活動の保証は、大学当局と学生の間のルールにもとづく信頼関係に基づくのであるから、大学における当局と学生諸団体との関係の在り方、あるいはそこに生じる様々な問題は、このルールにもとづく信頼関係という点から評価され、判断されなければならないのである。さらにまた、学生と大学当局が、信頼関係に基づく交渉によって様々問題を解決していくということは、一部の教員による専断が自治の名の下に押し付けられるといった閉塞した状況を抑制し、大学内における民主主義を保証するものともなりうる。この意味で、学生の自治的諸活動が正当に尊重され、学生と大学の間での信頼関係が存在しえているか否かは、大学の自治そのものの内実を検証するものでもありうるのである。
教育基本法に定める、「民主的で文化的な国家」の形成者としての「人格の完成」、「普遍的にして個性ゆたかな文化の創造」、教育の機会均等、「良識ある公民たるに必要な政治的教養」の尊重等の規定は、以上のような内容を含むものとして理解される必要があるであろう。」
この信頼関係の破壊こそ、前記の84合意書に見られるような大学自治の合意違反、東大確認書における全構成員自治の原則違反として控訴人がこれまで何度も述べ、本書面でも「3 廃寮決定は重大な瑕疵ゆえ無効である」と主張したものである。その後毎回の学生自治会代議員大会決定や駒場寮総代会決定、93年、94年の二年連続のストライキなどで示された学生の廃寮反対の意思を一顧だにせず、廃寮を押し進めてきた学部当局の態度にも、廃寮告示に至る過程での信頼関係の破壊は示されている。
この信頼関係については、12年かかった旧制一高の駒場移転(乙166)、2001年2月15日の公判で控訴人竹が供述した近年の東京大学文学部学生ホールの改修、本郷生居住の東京大学豊島学寮の建て替えにおいても重視されて慎重な措置が執られている。
即ち、控訴人竹が進学した東京大学文学部においては「文学部の学生ホールの改修問題というのが持ち上がっていましたけれども、これは、学生側と大学当局の方と・・・話し合いが実りまして合意に至りまして、話し合いの成果で改修がちゃんと行われまして」(同調書10頁)という形で文学部学生ホールの改修が行われ、本郷キャンパスの寮(本郷寮)についても「寮側と大学側との話し合いが実りまして合意が達成されて、もうすぐ立て替えが行われようとしています」(同調書同頁)という形で改修が実現している。
こうしたやり方が、大学における学生都当局との信頼関係確保のための常道であって、駒場寮廃寮決定の過程はそうした常道に反したものであることは明らかである。以下に詳述する。
2) 廃寮決定前には何らの説明・協議も行われていない
ア 学生をだました大学当局
1991(平成3)年10月9日の教授会決定以前に廃寮計画は学生に対して一切説明していなかったことは、永野証人も認めており、争いのないところである。
しかも、大学当局は、実際には文部省に対し駒場寮の廃寮を前提とする三鷹国際学生宿舎の概算要求をして折衝を進めていたにもかかわらず、平成3年7月の総長交渉、学部交渉の席では「廃寮は考えていない」、「寮の建替の具体的計画はない」などとあえて虚偽の事実を告げて学生を欺罔し続けていた。
更に重大なことに、1991年10月15日の評議会において有馬総長は「ここ1年ぐらいの間に機会を得て、駒場及び追分の2寮を視察したが、学生寮は大変老朽化し、建て直しを必要としている」と発言している(乙175)。総長はこの直前の同年7月の総長交渉において駒場寮の廃寮は考えていないと述べているが、先の発言からすれば総長交渉の時には既に駒場寮廃寮が必要であると考えていたと考えられる。
少なくとも駒場寮廃寮を前提とする三鷹国際学生宿舎建設計画の概算要求がなされたことは知っていたはずである。右の総長の交渉における発言は詐欺であることはここからも明らかになるのである。
また、91年7月16日の教養学部学生自治会と学部当局との交渉において、教養学部の評議員は寮の建て替え計画について「具体的計画に至っていない」と述べ、駒場寮廃寮について何ら触れないのみならず、「具体化すれば学生と話し合う」と述べているにもかかわらず(年表 乙17号証の3)、事前に相談がなかったことも詐欺であることは言うまでもない。
他方、学生側は、以下のように、10月9日の教授会での廃寮決定の情報を察知するや、学部当局に対して公開質問状を出すなどして全容公開を求めてきた。にもかかわらず、説明もしないままに、10月15日の評議会決定がなされてしまったのである。廃寮計画が公表されたのは、その後の10月17日であった。
1991年10月9日
学部当局、臨時教授会において、駒場寮の廃寮と三鷹国際学生宿舎の建設を決定。
1991年10月12日
教養学部学生自治会委員長と駒場寮委員長の連名で、学部長に対し、右計画の存否及びその内容についての公開質問状を提出。
1991年10月14日
学部当局、右質問状に対し、教授会が右計画を決定した旨を回答。寮生・学生側は、右計画の全容を公開した上で、交渉の場を設けるよう要請。
1991年10月15日
東大当局、評議会において、右計画を承認。
1991年10月17日
学部当局、「21世紀の学生宿舎を目指して」を作成配布し、右計画の内容を公表。
従って、駒場寮廃寮決定(1991年の基本決定から1995年の廃寮告示に至る過程)は、当事者である駒場寮自治会との合意を無視し、信頼関係を破壊した点でも裁量権の濫用である。
イ 84年合意に完全に反する今回の廃寮決定
1984年の合意の内容に照らせば、駒場寮の廃寮という重大な決定を行うに際して、大学が事前に駒場寮自治会と交渉を行うべきことは当然の前提である。また、駒場寮の廃寮という方針は、1984年当時教養学部がとっていた駒場寮の長期利用という方針とは全く正反対なものであった。
80年代前半の水光熱費負担区分が問題となっていた当時、教養学部当局は、文部省の政策にしたがった寮の建て替えではなく、駒場寮を修繕しながら長期に使用していくという方針を決定していたのである。このことは、寮生の水光熱費一部負担導入の提案にあたり、第八委員会が次のように文書で訴えていたことを見れば明らかである。
「駒場寮は戦前に建てられたとはいえ、極めて堅牢な建物であるので、寮生諸君の要求の実現を含む更に十分な改修を行えば、将来にわたって長く使用に耐えうる諸君の生活の場を創り出すことも可能なのである」(乙62)
さらに、84合意の後、当時の菊池昌典第八委員長は引き継ぎメモに、「駒場・三鷹の存続可否の長期プラン作成において、老朽化↓廃寮ではなく、改修↓長期化を選択した」と記載していたことからもこのことは確認できる(乙24)。
実際にも、教養学部当局は駒場寮の長期存続を前提として、1987年に寮の浴室の移設について交渉・合意のうえ実施することを確認し、「駒場寮浴室移転についての基本構想」を工事図面を付けて提案するまでに至っていた(乙29、30、成瀬証人・33〜35頁)。
したがって、1984年の合意の内容によれば、大学当局が駒場寮自治会や学生と事前に交渉もせずに廃寮決定をするということは、まさに不意打ちであり、とうていありえないことなのである(成瀬証人・36〜37頁)。
ウ 確信犯的な大学当局の手続違反
@ このように、大学当局が学生との協議も行わないまま、駒場寮の廃寮決定を行ったのは、なによりもまず、右決定が大学と駒場寮自治会との合意にもとづいて形成されてきた寮自治を否定し、寮の管理運営のあり方を抜本的に変更するものであるにもかかわらず、大学当局にはこのような変更について学生を納得させるに足るだけの理由がなかったからである。
駒場寮では入退寮について学生の寮委員会が行い、個別の許可証は発行されていなかったのに、1991(平成3)年10月の教授会決定では突然、三鷹国際学生宿舎の入退寮は学部当局が行うとものとされた(永野証言・30頁〜32頁)。
永野証人も、寮の管理運営に関するこの決定が従来の駒場寮の管理の実態とは180度異なるものであることを認めている。
そのうえで、永野証人は、学生の「プライバシー」云々をこの突然の変更の理由としてあげている。しかし、このような問題は教授会決定以前には、駒場寮自治会との間で議論にすらなっていなかったのである(原審永野証言・34頁〜35頁)。大学当局が、駒場寮における寮自治がプライバシーとの関係で問題があると本当に考えていたのであれば、教授会決定より以前に、入退寮選考の方法にプライバシー上の問題があることを指摘してしかるべきである。ところが、このような議論はまったくなかった。したがって、学生の「プライバシー」は、大学当局が寮自治を否定することの理由とはなりえない。
そして、永野証人が、このように理由にもならない理由を証言せざるをえなかったところに、今回の廃寮決定には何らの正当性がないことが端的にあらわれているのである。
A つぎに、大学当局が学生との協議を行わなかったのは、駒場寮の廃寮を前提とする計画が明らかになれば強い反対が出ることが予想されたからである。
この点について、永野証人は、以下のように、予算の獲得にとって、学生との協議が邪魔になるという考えをストレートに証言している。
「予算がつくかどうか分からない段階でワイアイ騒ぎたてても意味がない・・・」(原審永野証言・25頁)
「予算がつくかどうか分からないものを、いろんな問題すべてについてがたがた、がちゃがちゃやっているほどのゆとりはないわけですよ。」(原審永野証言・65頁)
すなわち、大学当局にとって、決定前に学生と協議を行うことは、予算獲得の障害にしかならず、そこで表明される学生の意見は単なる「雑音」にすぎないというのである。ここには、大学の意思決定に関する手続や学生の自治を尊重することよりも、文部省から予算を獲得することが重要であるという大学当局の認識が虚実に示されている。
B 結局、大学当局が廃寮決定前に学生との協議を行わなかったのは、学生を納得させるだけの理由がないため、協議を行うよりも先に決定をして既成事実をつくった方が予算を獲得しやすいという打算にもとづくものである。その意味で、廃寮決定に至る大学当局の手続違反は、まさに確信犯的な悪質なものといわなければならない。
3) 学生の「強い反対の意思」は明確
ア 学生自治団体の明確な意思表示
原審において永野証人は、廃寮決定後の学生の反応について、「強い反対はなかった」と証言しているが(原審永野証言・6頁など)、これはまったく事実に反する。
1991(平成3)年11月11日、駒場寮自治会の最高意思決定機関である総代会では、駒場寮廃寮反対、三鷹新寮建設につき駒場寮廃寮を前提にしないこと、右計画の予算請求を1年待てとの決議がなされた。
翌日の学生自治会の最高意思決定機関である代議員大会でも、話し合いが不十分であり、三鷹国際学生宿舎予算は1年待つこと、三鷹改築と抱き合わせの駒場寮廃寮には反対である旨が明確に決議されている。
それぞれ学生自治団体の最高意思決定機関における反対決議は、これ以上ない学生による「強い反対」であった。
永野証人は、この点を指摘されると、「強い反対」とは「無期限スト」くらいだなどと開き直っている。しかし、「無期限スト」とは、全構成員自治の手続ルールが未確立であった時代の産物であり、東大確認書にある学生自治団体の「公認」(乙1)とは、個々の学生の意見ではなく、自治団体の決定を学生の意思とみなすことである。永野証人の証言は、全構成員自治の原則を理解しないことを自ら吐露したものにほかならない。
また、永野証人は三鷹宿舎の建設に賛成であることは駒場寮の廃寮への反対と両立しないとする(原審第12回調書37頁)。しかし、当時から現在に至るまで、三鷹宿舎を建設するとなぜ駒場寮を廃寮しなければならないのかは、まったく明らかにされていない。このふたつを1方的に結びつけた上で駒場寮の廃寮を押しつける態度こそが、もっとも全構成員自治の準則に反する態度である。三鷹新宿舎を建設しつつ駒場寮を残すことについては、定員の上からも床面積の上からも何らの法的障害はない。
三鷹の新宿舎建設と駒場寮の存続を両立させるために全構成員が真摯に協議することこそ、求められていたのである。
イ 根拠にならない「アンケート結果」
永野証人は、駒場寮廃寮について、「様々なプロセスを経て、大多数の学生が賛成していることを確認した上で推進した」旨証言する。しかし、前記事実経過からすれば、永野証人が大多数の学生の意思を確認したとする方法は、唯一、1991年12月6日に送付されたアンケートのみである。
しかし、この「アンケート結果」をもって「大多数の学生が賛成している」などとすることはとうていできない。
まず、このアンケートの実施前に学部自治会・寮自治会がともに最高意思決定機関において駒場寮の廃寮に反対する決議を行っている。にもかかわらず、最高意志決定機関の決議が学生の意見を代表するものであることを否定し、個々の学生に直接大学がアプローチすること自体が、学生団体を自治団体として公認した大学自治の原則に反するものである。
次に、学部当局、学部交渉の席上、強い反対がないことを理由として、右計画の強行を宣言したのは、1991年11月28日であり、アンケート開始よりも前であった。アンケートは後にアリバイ的に行ったものに過ぎず、「学生が賛成していることを確認」する以前に廃寮を「推進した」のである。
更に、1992年1月13日に、このアンケート結果は公表されたが、891名にアンケート用紙を配布し、回収はわずか468名(52・5%)。うち、約300人の賛成回答しか得ていない。これをもって、「大多数の学生が賛成している」などと言えるものでないことは明白である。
さらに、この「アンケート」の回答結果には、駒場寮廃寮への賛成は全く示されていない。すなわち、永野証人証人も認める通り、このアンケートでは、駒場寮の廃寮の是非についてはまったく聞かれていない(甲15・22頁、原審第12回調書9頁、39頁〜40頁)。21の質問のうち、三鷹新宿舎に関連した質問は8問だけであり、それも、入退寮選考権のない宿舎にすること、食堂は付設しないことなどはまったく説明しておらず、ただ「関心がありますか」「留学生を含む宿泊施設を建設することの社会的必要性についてどう思いますか」などと肯定的な回答を誘導する設問を重ねて、最後に「建設計画を進めることに対して、どのように考えるか」という設問が設定されているだけである。
このようなアンケートで駒場寮の廃寮について「賛成が72・4%」あったなどと主張することは、詭弁に過ぎない。まさに、寮自治についての長年確立してきた慣行や運用は、学生の意見をまったく聞かず、当局が一方的に撤廃を決定したのである。
以上から、一九九一年の廃寮決定により東京大学と駒場寮自治会および学生らとの信頼関係は決定的に破壊され、裁量権濫用と評価すべき事態にまで至っていることは明らかである。
4) 1991年廃寮決定後の東大当局の立場・見解
1991年に学部当局・東大当局が駒場寮の廃寮を決定した後も、学生・寮生は継続的に何度も廃寮反対の意思を明らかにしてきた。
例えば、駒場寮自治会は、1992年5月21日総代会、1993年1月22日総代会、同年7月27日駒場寮存続を求める署名2500筆、同年10月15日総代会、1994年4月存続を求める新入生署名2133筆、同年10月28日総代会などで、駒場寮廃寮に反対する意思を表明してきた。学生自治会も、1992年6月11日代議員大会、1993年11月19日ストライキ、1994年12月2日ストライキなどで、同様に駒場寮の廃寮に反対する決議・運動を行ってきた(乙14の1、乙66の1〜3)。
ところが、学部当局は、1991年の廃寮決定後の様々な学生・寮生との交渉の場で、駒場寮の廃寮決定の是非が問われているにもかかわらず、一貫して駒場寮の廃寮を所与のものとして、これを絶対的前提とすることに固執し、当初から、駒場寮の廃寮という結論を再検討したり、変更したりする姿勢は全く示さなかった。学部当局が、廃寮決定後、このような「結論先にありき」という姿勢に終始している以上、交渉の場が何回もたれようと学部当局が学生との協議を尽くしたと評価することはできない。
5) 大学自治破壊の警察官との懇談会開催
それどころか、東京大学教養学部当局と目黒警察署が一九九四年から九五年にかけて、「秘密懇談会」を繰り返していたという驚くべき事実が発覚した。この会合には、駒場寮廃寮計画の遂行を目的とする三鷹特別委員会委員長が毎回必ず出席していた。このことは、学部当局が駒場寮廃寮に向けて学生を実力で排除するために警察との打ち合わせを実施していたことを裏付けるものである。
これは、官官接待の疑惑さえ抱かせるとともに、権力の介入から学問の自由を守るために保障されたという大学の自治を破壊するものであり、大学自治の自殺行為である。
さらにこの事実は、教養学部当局の学生寮生の意思を無視する態度とその帰結を如実に表している。それは1968年の東大闘争の際、東大当局が学内問題の「解決」のために機動隊を導入したことから重大問題に発展したことの反省に立って締結され、原則として学内紛争解決の手段としては警察力を導入しないことと、学生の自治活動に関する調査や捜査については協力しないこと、そして学生、職員も教授会とともに固有の立場で大学自治を担う主体であるという全構成員自治の原則を明記した東大確認書に明白に反する。
この確認書および1984年の水光熱費負担区分に関する「合意書」に明確に違反して1991年10月臨時教授会において秘密裏に決められた駒場寮廃寮の帰結が、前述した警察と大学との癒着というおぞましい事態である。
それが学部当局と学生との信頼関係を破壊するものであることは明らかである。
5) 以上より、駒場寮廃寮決定(1991年の基本決定から1995年の廃寮告示に至る過程)は、当事者である駒場寮自治会との合意を無視し、信頼関係を破壊したものといわざるを得ず、こうした実体的側面からしても本件廃寮決定は裁量権の濫用である。
(1) まず、権利濫用の成否は、占有権原の存否とは別個の争点である。すなわち、建物の占有権限がない場合でも、所有者の明渡請求が法的に許容されない場合があることは当然の前提となっている。
したがって、占有権原がないことを権利濫用を否定する根拠とすることは、そもそも論理矛盾であって判例にも反し、失当である。
例えば、東京地裁昭和47年5月30日判決は、電気ガスの供給停止を違法としているのみならず、原告が賃借権という占有権原を喪失したものであるにもかかわらず、その占有権を法的保護に値する利益として不法行為責任の成立を認めている。
控訴人らの何名かが本件建物を占有使用しているのは、原判決も認定しているとおり、大学と駒場寮自治会との長年にわたる合意にもとづくものである。こうした控訴人等の何名かの継続的かつ平穏な占有使用の状態は、それ自体法的保護に値するものというべきである。
(2) 駒場寮の維持費は、年間1000万円から1500万円程度であり、明寮の明渡断行仮処分の執行の際にガードマンの雇い入れ費用として費やしたと言われる数千万円よりもはるかに少ない。いわんやキャンパスプラザ予算12億数千万円や、CCCL駒場のための募金予定額40億円に比べればはるかに少ないいものである(乙8号証・10頁)。
現在、わが国は、深刻な財政赤字に苦しんでおり、それを名目に、年金の切り下げ、教育費の伸び率の低下などの、福祉・教育の切り下げが行われているほか、公務員の賃金上昇凍結などの緊縮財政政策が行われてきたことは周知の通りである。そのもとで、多くの大学が資金難で学問研究条件も悪化している。
にもかかわらず、独り東大においてのみ、未だ使えて維持費もごくわずかである駒場寮を壊し、莫大な予算を必要とする新施設建設を行うことが許されて良いはずがない。
(2) 被控訴人(原告)に権利行使によって得られる利益が認められないことは、以下に見る違法な自力救済行為を行ったことからも明らかである。
東京大学は1996年4月以降、以下に述べるとおり、実力行使を含むあらゆる手段を行使して寮生を駒場寮から追い出そうとしてきた(乙50)。
寮生を実力で追い出そうとして行った大学の行為は、民間の一般の明渡事件でも例を見ないほどの執拗かつ違法性の高いものであった。まして、理性による話し合いで解決を図るという大学のあり方からはおよそかけはなれたものである。
このような行為を繰り返しながら、それが功を奏しないとみるや、裁判所に明渡を求めるというのは、法秩序を無視した行為に手を貸せといっているに等しいものであって、クリーンハンズの原則に反し許されない。
(3) 違法な自力救済に関しては以下のような注目すべき判例がある。借家の賃貸借契約終了後、借家人が建物を占有し続けていたのに対し、家主が、建物部分に無断で侵入し、
「(イ)本件建物部分表側扉の内部からベニヤ板を打ち付け、且つ施錠を破損して、出入りを不能にし、
(ロ)裏側非常口に至るくぐり戸を釘打ちにして、開閉を不能にし、・・・
(ホ)本件建物部分北側の壁面の照明器具に通じるの電気配線及びガスのゴムホース管の根元をそれぞれ切断し、
(へ)配電盤を操作して送電を中止させ」
るなどして実力で明け渡しを実現しようとした事例で、家主は「自力をもって本件建物部分明け渡し請求権の実現を違法に遂行しようとして、右認定の行為に出たものと認められ、これにより原告の本件建物部分及び什器備品に対する占有権、付帯設備(消化器)の所有権並びに営業権を侵害したものであるから、たとえ原告が本件建物部分の賃借権を喪失し、被告に対する明け渡し義務を負担していたものであったとして、なお不法行為責任を免れない。」としている(東京地裁判決昭和47年5月30日・判例時報683号102頁)。
右判決の論旨を本件に当てはめれば、大学当局の行為が違法な自力救済措置にあたることは明かである。
(4) にもかかわらず、原審は、以下の具体的に見られる学部当局が繰り返した教育者にあるまじき蛮行について、全く判断を示さなかった。かかる態度は到底是認されるものではない。
1) 「説得隊」と称する明渡の強要
1996年4月2日、大量の教職員が、学生達に退寮を促すための説得活動と称して突如駒場寮に押し寄せてきた。いわゆる説得隊である。
寮生が日常生活を送っている生活空間に、大人数の人間が突然、しかも学生に対して大学の教官という立場で押し入ってきたことはまさにプライバシーの重大な侵害であり、「生活破壊」以外の何者でもない。さらに、寮の部屋について、空き部屋と認めるやいなや、施錠したり木材を釘付けして封鎖する、寮内の窓ガラスを叩き割る、勝手に人の部屋の写真を撮る等の実力行使を行った。寝ている間にドアが封鎖されて部屋に閉じこめられた寮生もいた。およそ大学の教職員とは思えない蛮行が繰り返されたのである。こうした事態が、駒場キャンパスで約5ヶ月も続いた(乙42・被告==・12から13頁)。
ところが、原判決は、右の違法行為について一切触れていない。かえって、原判決は「被告らを含む在寮者からカメラを取り上げられたり、通行を阻止されたりなどして調査を阻止された」として被告が違法行為を行ったかのように認定している(19頁)。
しかし、寮生がカメラを取り上げたのは、前述のように勝手に人の部屋の写真を撮るなどのプライバシー侵害行為を行ったことに対する緊急避難的措置であり、カメラは後日教養学部当局に返還している。教養学部が今もって電気ドラムを返還しないのとは全く違うのである。
また、通行を阻止したというのも、学部職員は従来は寮内に立ち入ることはなく、施設の点検、補修等何らかの必要な用事で寮内に立ち入る際にも必ず寮委員会に事前に連絡をしていたとの慣例からすれば(成瀬証人・五八頁)、何ら違法行為とは言えないのである。
2) 渡り廊下解体工事の強行
他方で、原判決は、「一 前提事実」の章で、「渡り廊下の取り壊し作業についても、右寮生らの実力行使によってその工事が阻止され」と摘示しているが(一八頁)、これは明らかな事実誤認である。
すなわち、1996年4月8日には、中寮と第一研究室の間の渡り廊下はパワーショベルにより解体されたのである。更に同月24日には、学部当局はパワーショベルとチェーンソーを導入し、寮裏の渡り廊下破壊工事を行い、翌25日には、旧南寮(第一研究室)脇の渡り廊下を破壊したのである。
3) 電気・ガスの一方的供給停止
ア 学部当局は、1996年4月8日午前10時、事前の通告もなく突然駒場寮への電気・ガスの供給を停止するという実力行使を行った(乙21・写真24〜26、乙12の6・50頁・被告==・12頁など)。駒場寮は学生生活の場であり、勉強、パソコン使用、食料冷蔵、洗濯棟にとって、ガス・電気は不可欠である。これは、これは地上げ屋ですら行わない非人道的行為である。また、民法の原則に反する自力救済であり、違法な行為であることは明らかである。
この電気・ガスの供給停止は、永野証人も個人的には躊躇せざるをえないほど乱暴きわまりない行為であった(永野証言・79〜80)。永野証人自身、「人道的には問題があるが、法的には問題ないと発言」(松井本人尋問調書3頁)し、二枚舌を臆面もなく展開している。永野証人は、大学が、電気・ガスの供給停止をどのようにして決定したのかという点についての供述を拒んでいるが、これは、右行為が人道にもとる行為であると認識しているからにほかならない(永野証言88〜90)。
被控訴人は、自らの行為が学生たちに与える打撃を十分に認識しつつ、ある時は黙認し、ある時は弁解にもならない弁解をして自らを正当化しようとしているに過ぎない。
イ これに対し、電気を止められた駒場寮生は、緊急避難的措置として、南ホール(旧寮食堂)から、最低限必要な電気を引いて生活していた。この寮食堂は、その設立以来一貫して駒場寮委員会が管理し、電気の使用についてはその裁量に委ねられていたのであるから、被告駒場寮自治会が寮食堂から電気を供給したことには何ら違法はない。
ところが、1996年6月3日には、学部当局は、電気線を切って寮生が電気を引くのに使用していた電気ドラムコードを50個以上を持ち去るという窃盗及び器物損壊行為を行った(永野三郎証人)。しかし、原判決は一切言及していない。
寮生はその返還を求めているが、未だに返還されていない(被告==・13頁1行目、乙21・写真19)。
ウ 原判決は「一 前提事実」において、右の電気及びガスの供給停止を摘示した後に電気の供給等を求める仮処分申立を却下する東京地裁決定について摘示している。
しかし、右東京地裁の決定は、電気・ガスの供給停止という大学当局の自力救済措置の違法性をいささかも否定する意味を持つものではない。
なぜなら、右決定が結論として申し立てを却下した理由は、自然人でない駒場寮自治会には人格権が認められないとか、駒場寮自治会には法的に電気・ガスの供給を要求する立場にないという形式的なものである。この結論自体は不当であるが、右決定は大学当局による電気・ガスの供給停止を正当化するような内容のものでないことはいうまでもない。むしろ、裁判所は、右仮処分の審尋手続においては、本訴が継続しているのだからせめて電気ぐらいつければどうかという趣旨の和解を勧告しているのである。
4) 給料を差し押さえるとの恫喝
1997年2月25日、明け渡し断行仮処分の審理がなされている最中に、教養学部長名で各債務者宛の文書が発表された(乙第12号証の4)。
これは、仮処分執行には、総額で約1億円以上もかかる、したがって、あなたの給料が将来差し押さえられる可能性もあるという脅しを内容とするもので、寮生が仮処分手続で自らの主張を行って争うこと自体を封殺したうえで、寮生を追い出そうとしたものである。
これは、当時、裁判所からも、こういうことを行うのはよくないでしょうという注意を受けてたしなめられたほどであり、およそ、教育者にあるまじき行為である(控訴人==・8頁5行目以下)。
5) 明け渡し断行仮処分執行の際の違法行為
原判決は、1997年3月29日の明寮明け渡し断行仮処分については、同日に執行されたことを記したのみで、その問題性については何ら言及していない。
しかし、右仮処分は、以下に述べるような不当・違法なものであった。
まず、右仮処分に際しては、債務者らは同年3月28日に被控訴人及び執行官に対して任意での明け渡しを通達していたにもかかわらず、その翌日(決定から僅か4日)に執行が行われた。大量のガードマン・作業員及び教職員が執行官と共に駒場寮にやってきたのである。これは、寮生学生に対する重大な恫喝行為である。
しかも、強制執行するという強権が発動できるのは、債務者に対してだけだが、執行官は「非債務者も債務者とみなす」などという法的正当性の微塵もない発言を行い、事態を知った弁護士が駆けつけてくるのも「待てない」として、執行官が追い出す権限を持たないはずの「非債務者」まで無理矢理追い出したのである。
その日は、4名の「非債務者」だけは強制執行を免れた。にもかかわらず、翌30日には、学部当局は、明寮取り壊しの準備工事として明寮周辺へのフェンスの設置工事を行おうとしてきた。この工事は学生の強い反対により中止の追い込まれたが、被控訴人は、明寮に残った四名の非債務者に対して全く知らせないまま第2次仮処分申立を行い、無審尋で決定を得て、同年4月10日、学生がオリエンテーションで忙しい中に右決定に基づく強制執行を行ったのである。この際には、寮生側の立会人も拒否され、多数のガードマンが非債務者に襲いかかり、手足をつかんで寮外に運び出すという暴挙を働いた。ところが、原判決では、この第2次強制執行については、全く言及すらされていない。
6) 6月28日の暴行事件
ア 1997年6月28日の北寮裏庇、寮風呂破壊工事に関して、原判決は「教養学部は、同年6月28日に明寮の建物跡地付近にキャンパスプラザ及び多目的ホールの建設工事をするために仮囲設置工事を行い、右工事用建物のために駒場寮内の渡り廊下や寮風呂建物を取り壊したが、右工事に対しても、被告らを含む多数のものが有形力を行使するなどして妨害した」と摘示し(24頁)、あたかも寮生が一方的妨害工作を行ったかのように記述している。
しかし、右工事では、実際には数百人のガードマンによる暴行・リンチが行われた。教職員は、それを傍観していた(被告==・13頁)。
また、寮生に対し北寮裏の庇と渡り廊下のみを取り壊すと言明したにもかかわらず、抜き打ちで寮風呂の取り壊しも行った。
イ 控訴人松井は、1997年6月28日に駒場寮に駆けつけた時の模様について、当局が寮生や支援する学生に対して最大限の暴力を振るった事実を次のとおり生々しく述べる。
@ 学部当局は、学生らがその庇に乗っている寮の渡り廊下について、建設用重機を突入させて破壊した。控訴人松井は、破壊当時庇の上には乗っていなかったものの、破壊の様子自体は目撃した。その様子について松井は、「その庇の下の扉に、工事の機械ごと扉を破壊する形で突っ込んできて、そのあまりの暴力に、私はただそれを呆然と見ているだけでした」と形容する(松井本人尋問12頁)。
松井の目撃した庇の破壊行為の模様についてはビデオによる撮影がなされているが、「こんなやり方ひどい」「やめて」と抗議している人が庇の上に乗っているにもかかわらず、強引に重機が突撃し、庇の上に乗っている人もろとも庇を破壊した(乙160号証の1および同号証の2)。庇の高さは2メートル近くもあり、たたき落とされた学生らが重機の突起箇所や地面にぶつかり怪我をする危険も大いにあったのである。
当局の行った暴力的行為はこの一件で既に明らかである。
A 学部当局に雇われたガードマン達は、廃寮に反対する学生らに対し、徹底的に暴力を振るった。
乙160号証の1および同号証の2によれば、ガードマン達が「せいの、せいのっ」「うりゃー」などと罵声をあげながら北寮の一階の扉を破り喚声を上げながら駒場寮に突入し、抗議する学生の首を絞めるなどの暴行を尽くしたことが明らかである。また、言論により廃寮の不当性を訴えている学生に対して、ガードマン達は「うるせーな、このやろう」「なめんじゃねーぞ、こら」「おい、やんのかこら、おい、やんのかやんねーのかどっちだこら」などと暴言を吐いて挑発している。
控訴人松井は、こうしたガードマン達の暴行について、「もみ合いでかなり騒然となっている中で、殴られたとかいう声がしたのは聞いています」(松井本人尋問13頁)と述べ、ガードマン達による暴行が偶発的なものではなく、執拗になされた事実を明らかにする。
また、控訴人松井自身、殴られはしなかったものの「何の権限があるのか分かりませんが、ガードマンたちが人間の壁で寮の階段や入り口をふさいで、寮の内外、外から入ってくる、あるいは中から出ようとするのを事実上妨害して、私たちを監禁状態にしました」と述べ(松井本人尋問13頁)、その際ガードマンが学生をつかんで引きずり出す暴行を加えている様子を目撃した(同頁)。
このような学部当局による学生への暴力は決して許されない。この日、ガードマンの直接暴力により4名が救急車で運ばれ、十数名が負傷した(乙120号証ないし123号証 被告==・13頁)。6月28日に学生に襲いかかった暴力は、学部当局の廃寮のためならば学生がいくら怪我しようが構わないという姿勢が露わになったものであり、廃寮問題に関する学部当局の本質を明らかにするものである。
B このような暴行を目の当たりにしながら、執行を監視する役割を有する教養学部の教官は見て見ぬ振りをして談笑するか、積極的に暴力に加担する態度をとるかのどちらかであった。
駒場寮廃寮問題を担当する三鷹特別委員会の小林教授は北寮の扉をガードマンたちに破壊させるための指示をなすにあたって「総攻撃を開始する」と軍隊の指揮官まがいの暴言を吐いている(松井本人尋問12頁)。
小林教授のこの暴言については、被控訴人提出の甲5号証添付資料二第12頁にも明記されており、学部は学生の生命・身体を「攻撃」することに何ら躊躇しないという大学人として恥ずべき事態が生じているのである。
また、小林教授以外の教養学部教授達も、暴行を目の当たりにしながらガードマン達を制止するわけでもなく、その暴行を黙認した。控訴人松井はその様子を見て「教官達が日ごろ言っているような、智のモラルなどという単語がありまして、このようなモラルを訴えるような発言をしている教官たちが、一体このような場を許せるのか」と述べている(同調書18頁)。
C 控訴人日臺も、1997年6月28日に知人からの連絡を受けて小石川の下宿先から駒場寮に駆けつけた際、教養学部の教官である生井澤教授が「寮生に対してかなり恫喝じみたことをやったり暴言などを吐いていた」(日臺本人尋問調書7頁)様子を目撃している。同日の教養学部当局の行為の違法性を示す事実である。
現在行われている「六・二八暴行事件損害賠償裁判」においてもガードマンによって暴行が行われたことがほぼ間違いない事実とされ、この責任をめぐって国とガードマン会社(新帝国警備保障)が責任のなすりつけ合いを演じるという醜態を晒している。
どちらが暴力を保持し、行使したかは当日の力関係からも、前日になっての突然の取り壊し通知からも明らかである。だが原判決ではそのような事態は一方的に無視されたのである。
(5) かかる自力救済行為や権利侵害行為は、本訴提起後もなされている。
1) 放火を利用した停電
1998年9月3日午前5時過ぎ、南ホール(旧寮食堂)から出火があったが、寮生の初期消火の尽力もあってまもなく消し止められた。寮生の後日の調査により、放火に使われた燃料や放火箇所が10ヶ所以上発見され、この出荷は計画的かつ組織的な放火であったことが明らかとなった。これに対し学部当局は、出火当日の内に南ホール封鎖を画策し、南ホールへの電力供給も秘密裏の内に業者を使って寸断した。
駒場寮は96年4月の電気ストップ以来停電状態に追い込まれたため、かろうじて通電していた寮施設の一部である南ホールから電気を引き、少ないながらも廊下や各部屋に電気を供給していた。その僅かな電気すら絶たれてしまったのである。
計画的かつ組織的な放火という重大な犯罪行為に対して、事件の真相究明、損害を受けた設備の修復といった対策をせずに、学生の生活破壊のために利用した学部当局の対応は、大学の管理主体にあるまじきものである。
この放火以来、駒場寮は照明がつく部屋は僅か4部屋だけとなり、100名もの寮生は半年以上もの長期にわたり、極限的な生活を余儀なくされた。夜になると部屋は闇に閉ざされ、冬は寒さに震えることとなった。
現在駒場寮は、寮委員会が購入した発電機により、少しだけ電気状況は改善したが、電気供給量は少なく、寮生は以前困難な生活を余儀なくされているのである。
2)南ホール取り壊し強行
1999年1月24日午前5時過ぎ、劇団や音楽系サークルの練習場所として機能してきた南ホールを取り壊すためのフェンス設置工事が、200名以上のガードマンと作業員、100名以上の教職員を動員して強行された。
南ホールの取り壊しには、2100筆以上の署名・13のクラスアピール・代議員大会決議・自治団体共同アピールなどにより、学内でも大きな反対の声が挙がっていた。
学部当局はこの反対の世論を無視したのである。この日は、キャンパスに人の少ない日曜日であるにもかかわらず、南ホールの前には学生が100名近く集まり、工事の中止を学部当局に求めた。しかし、学部当局は、「話し合うことは何もない」と明言し、交渉すらも拒否した上、圧倒的多数のガードマンにより学生を物理的に排除し、「邪魔すると機動隊が入ってくるかもしれない」と警察力を用いた恫喝をかけることで、反対を押しつぶそうとしてきた。また、破壊工事の様子を取材に来ていたマスコミに対しては何一つ説明を行わず、「マスコミはでて行け」という態度に終始し、「学外者退去命令」なる文書を突きつけて不当な追い出しを行った。
これは、この工事が一遍の道理もないことを学部当局自身自覚していたからに他ならない。
しかし、多くの学生が工事中止を求め続けた結果、学部当局は工事を完了できぬまま日没を迎え、ガードマンは引き上げた。
ところが、学生が期末テストで忙しい2月3日、再度の抜き打ち工事が前回を上回る300人以上のガードマンを動員して強行された。学生1人にガードマン10数名が襲いかかるという状況の下でフェンスは完成し、数ヶ月で南ホールは完全に取り壊されてしまった(乙49号証、50号証)。
3) 駒場寮生に対する差別的取扱い
学部当局は、駒場寮生に対して教育者にあるまじき差別的取り扱いまで行っている。
教養学部生は、教養学部学生自治会を窓口として学生課に申し込んで構内の教室を自主的活動のために借りる権利を有しているが、学生課は、駒場寮生であるというだけの理由で拒否するという権利の剥奪まで行っているのである(被告==・14頁8行目以下)。
(2) 1996年7月、控訴人==は駒場寮廃寮反対運動に関わっていたことから、学友会総会に関するビラで控訴人==の実名を記載した上での中傷を受けた(甲34号証)。
このビラは、直接的には駒場寮廃寮賛成派の学生が作成したものである。しかし、作成者が三鷹特別委員会と内通し、酒食の接待まで受けていたことからすれば、中傷ビラによる控訴人==への中傷行為について被控訴人は当然に知っていたか、あるいは作成者に中傷ビラの作成を指示した可能性がある(乙154号証)。
当時学内で配布されるビラにおいて実名が出されることはなかった(乙154号証)。言論による正当な批判活動を行う際に実名を出す必要がないことは当然であるから、あえて控訴人==の実名を記載し、中傷行為を行われたことによって控訴人==の被った損害は大きく、このような行為を助長した被控訴人の違法性は大きい。
(2) それに対し、消費生活協同組合に対する国立大学(熊本大学)の校舎の一部の使用許可取消にもとづく明渡請求事件で大学の施設に関する明渡請求を権利濫用として否定した裁判例として熊本地裁昭和51年3月29日判決(判例タイムズ334号139頁)は、以下のように判示している。
「熊大がそのような方策を超えて直ちに本件使用許可を撤回することは、粋光熱費の未払い、決算書・事業の報告書の不定出に関する前記のような歴史的経過を捨象して大学の管理面を重視し、被告と熊大の相互協調的結びつき及び被告が熊大内の福利厚生に貢献してきた役割と実績を不当に軽視し、もって熊大が昭和二五年以来保持してきた良識と道義に基づく協力援助の姿勢を卒然として放棄したと評しても過言ではなかろう。もとより、かような態度変容は、被告を含めた前記四団体の限界を超えた交渉の姿勢とその後も公開交渉方式を固執する被告の非協調的態度を離れて考えることは出来ないが、そのような事情を考慮に入れてもなお、本件使用許可の撤回は、社会通念に照らして著しく妥当を欠くものと言うほかなく、権利濫用として違法、無効と断ずるのが相当であると考える」。
右判決は、「被告が福利厚生に貢献してきた役割と実績」を評価し、大学が長年「保持してきた良識と道義に基づく協力援助の姿勢を卒然として放棄した」「態度変容」を問題としている点で、本件にもそのまま当てはまると言える。
このうち、大学が長年「保持してきた良識と道義に基づく協力援助の姿勢を卒然として放棄した」「態度変容」については、信頼関係の破壊の問題として既に述べた。そこで、「福利厚生に貢献してきた役割と実績」について、以下に述べる。
1) 寮内外の学生の交流の場
ア 人間的交流の場としての駒場寮
駒場寮は、現代の若者を取り巻く環境に欠落している自主的民主的な人間形成の場として極めて貴重である。
即ち、駒場寮は、濃密な人間的交流の場であり、徹底した討論に基づき、自治がおこなわれる。これが学生の自主性、自律性、主体性の確立を促進し、その成長に影響を及ぼすのである。
@ 全寮連委員長は、自らの体験から以下のように陳述している。
「私は今まで本当の意味で人を信頼する、ということを知りませんでした。高校までの友達もどこかで「競争の相手」と見ていて、本当の自分を見せることはなく、いつも強がっていたし、友達の弱いところを探している自分がいました。しかし、自治がある寮に住み、自分たちで自分たちの生活を作っていく中で、本音を話せる友達もでき、寮の問題、社会の問題など真剣に語り合う仲間ができました。」(乙118)。
84合意の交渉に携わった成瀬証人は以下のように証言している。
「学生寮というのがやはり共同生活の場であって、・・・・やはり19歳から20歳、そのあたりの学生にとって、共同生活というのは非常に重要なことで、私の場合もやはりそうでして、寮に入ったのは第二の誕生日であるという風に私は思っています・・・・寮のなかでやはりいろんな意見の違う人、気にくわない人とも共同しなければいけない、それは食堂、あるいは風呂のなかで顔を合わすし、そういう人と協力していかなければ、たとえばトイレとか廊下の掃除すら出来ない、そういう中で共同性を養っていくものだろうというふうに思います」
A 駒場寮が設けられた当時も、寮生活が人間的成長の促進に役立つという点が強調されていた。
この点については、宇沢弘文東大経済学部名誉教授・元経済学部長も、自らの体験に即して述べている(乙13)。
「私は、戦争末期から戦後の混乱期にかけて、駒場寮で3年間生活した。当時の一高は、全寮制をたてまえとして、ほぼ完全な自治制度が行われていた(寮委員会による退寮処分はほぼ自動的に退学処分を意味していた。)。10代後半の多感な若者達が起居を共にして、学業に励むという、旧制高等学校の3年間が、私たちの人格形成、精神発展の過程で果たした役割は大きかった。」
教養という、世の中に対する目を養う教育を行う上で、夜が更けても心ゆくまで議論ができる場としての駒場寮の存在は、客観的には教養学部にとっても非常に重要なのである。
B 最近になって、学生時代や教育における共同性の必要が、様々な場面で強調されるようになっている。
三輪定宣千葉大学教授(教育行政学)は、2000年5月に発表された論文「統治戦略と教育・大学改革」(乙187)で以下のように論じている。「今日、能力主義・競争主義の教育政策やその延長の政府の教育・大学改革は破綻の様相を呈している。・・・教育の起死回生の処方箋は、・・・人材開発のための『競争の教育』から、人格の完成を目指す人間らしさあふれる『共同の教育』に大転換させることである。」
この共同の教育に不可欠な共同性が駒場寮には存在するのである。
2000年に発表された文部省関係の小委員会である平中委員会の報告「大学における学生生活充実方策について(報告)要旨」(乙168)は、「学生の立場に立った大学作りを目指して」を副題とし、T「3 今後の大学のあり方−視点の転換」において、「『学生中心の大学』への転換」「学習する側である学生の立場に立った改革の必要性」を唱えている。更には、U2(4)「学生関係施設の整備」の項で「課外活動施設や学寮など学生関係施設の整備充実」「学生が日常的に集まり、人間関係を緊密にする『たまり場』的な場所の学内における整備」を訴えている。学内寮である駒場寮は、まさにこの要請を満たすものと言える。
加えて、U「3 学生の希望・意見の反映」と題して「大学で教育を受ける学生の希望や意見を適切に大学運営に反映させることが重要」とし「学生が大学運営に関わることを通じて、社会的成長を促すことを期待」し、「(2)今後の改善方策」として「学生代表との意見交換の場の活用」が必要だとしているのである。まさに、全構成員自治の原則の承認に他ならない。
国際日本文化研究センター助教授の川勝平太は、「大学に住空間を」と題する文章を2000年に新聞に寄せ、「オックスフォード大学やケンブリッジ大学など、外国の一流大学には、大学構内に学長以下、教員、研究者、学生が住んでいる。構内に、ノーベル賞クラスの優れた学者が住んでいれば、そのたたずまいには自ら風格が出る。若者は一時期でもよいから、そのような場でじかに文化に触れたいとあこがれる。」「大学事態を世界の若者にとって魅力ある住空間に変えることが大切だ。そのためには、まず、大学人が全員、大学に住まわねばならない。」と述べて、学内寮の必要性を強調している(乙183)。
東京大学教養学部の教員も、2000年10月の教養学部報誌上で、学生時代に徹夜で語り合うことが一人の人間としていきていく上で貴重な財産となったことや、留学中の寮やアパートでの共同生活がもっとも貴重な体験であったことを述べ、共同生活の重要性を語っているのである(乙181,182)。
C 駒場寮は、学内の自治寮であって学生が容易に立ち寄ることが出来るために、学内の活発な交流の場として機能してきた。寮生のクラスやサークルの友人が遊びに来ては、酒を飲みながら議論を交わしたりするのが、新制大学発足以来の伝統となっており、その中で様々な思想・文化を生み出して来たのである。こうした交流が発展してクラス・サークル活動となるのであるが、それらにおいて駒場寮の果たしてきた役割は、以下の通りである(乙53号証9頁以下)。
@ 東大教養学部におけるクラスとは、語学の授業を受ける単位であるが、ランダムに割り振られた様々な思想を有した学生によって構成される場として、全員加盟制学生自治会の基礎単位となってきた。担任教官をおくことなどによって、学部当局もこれを自主的活動の単位として認めてきた。クラスでの人的交流によって、学生は自主的に学び成長してきたのである。
しかし、駒場にはクラスごとに教室が割り振られているわけではないので、クラスでのつながりをつくることはそう容易ではない。そこで、従来は、駒場寮生となっているクラスの一員の部屋を放課後や授業の空き時間などの溜まり場にすることによって、交流を図ってきた面も強い。また、新入生の大半が参加する全都新入生歓迎フェステバルや、駒場の学園祭である駒場祭における文V劇場などのクラス企画準備といった自主的活動に、駒場寮は利用されてきたのである。
今日では、クラスルームという形で、寮の部屋を希望するクラスに貸し出すことも行っており、1999年度は50クラス以上のクラスが駒場祭や全都新入生歓迎フェスティバルの準備にクラスルームを利用しているのである(被告==・26頁2行目以下)。
A サークルは、クラスとは対照的に、一定の目的を持った同好の士の集まりである。研究会、芸術、ボランティア、スポーツなど、その活動は多様である。 こうしたサークル活動も、それまで受験勉強に追われ、人的交流の不得手な者が多い現代の学生の人間形成にとって無くてはならないものとなっている。
駒場寮は、24時間解放されていることから、理系で実験に忙しいという学生や、経済的に苦しくてアルバイトで忙しいという学生が、時間的制約無しにサークル活動に参加できる貴重な場となっているのである(被告==・26頁11行目以下)。また、夜遅くまでかかる駒場祭の準備や、駒場祭期間中の物品保管にとって不可欠な空間となっている。
さらに、教養学部には7000人を超える学生が在籍しているのに対し、駒場寮を除けばサークルスペースは学生会館とキャンパスプラザのみであり、サークルスペースが不足している現状にある。そして、前述したように、学生の課外活動施設を建設する予算的めどは全く立っていない現状なのである。この点からも、駒場寮がサークル活動にとって果たしている役割は非常に大きい(被告==・27頁4行目以下)。
駒場寮に部屋を持たないサークルに対しても、駒場寮自治会は、会議室やコンパルームといった貸出施設の管理運営を行っているので、その活動に貢献しており、重要な役割を果たしていると言える。
B 駒場寮では、年に2回、寮祭を行っているが、これも、寮内外の学生の交流の場として、機能している。
その他、駒場寮ではOBとの交流もなされている。0Bが、後輩の部屋や元の所属サークルに遊びに来ることがしばしばあるのである。すでに社会人となった0Bとの交流は、高校を出たての経験未熟な学生同士の交流に知的な刺激を与え、正確に社会を見つめる目を養うことに寄与するのである。
また、駒場寮には、寮生以外のものも宿泊できる仮宿制度がある(乙41)。これは、様々な理由でキャンパスからの帰りが遅くなったときなどに、手近で気軽に宿泊できるばかりか、宿泊代が200円で済むということから、外国から来た学生を始め、多くの学生に利用されている。外国の学生寮は宿泊できる場合が多いため、宣伝しなくとも外国人学生が立ち寄るのである。これは国際交流の実現にもなっている。
さらに、寮外の人でも気軽に立ち寄って駒場寮にふれることの出来る場として、駒寮カフェを寮生が自主的に運営しており、寮内外の交流の場となっているのである。
D 以上のように、駒場寮は、寮内外を問わず学生の自主的に学び成長する権利に大いに貢献する場となっており、特に受験競争の弊害による自主性の欠如が指摘されている現在の学生にとってその必要性は極めて高い(乙48号証5頁)。
2) 教育の機会均等を保障する場
これまで縷々述べてきたように、戦後の学寮は教育の機会均等を保障する厚生施設としての役割を果たしてきた。
ア 日本の異常な高学費
その第1の理由は、近年の低文教政策と大学の独立採算制移行の動きに起因する学費の異常な高騰である。
大学の初年度納入金(入学金と授業料を合わせた額)は、本訴提起の翌年である1998年度には国立大学では75万3800円、私立が平均125万円であった。これは、30年前の1972年に比べて約70倍になっている。さらに、1999年度からは国立大学の授業料にスライド制までも導入された。
これは国際的観点から見れば極めて異常な事態である。
そもそも、国連人権規約(A規約)第13条2項C号は、「高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること」と規定している。国連加盟国で同号を批准していないのは、日本とルワンダだけである。ヨーロッパの多くの国においては、学費が無償であることは広く知られている。
以上からも、日本の学費の高額さが他に例を見ないことが分かる。
この下で、学寮の存在は、国連人権規約(A規約)第13条2項C号の要請に応える上で重要な役割を果たしている。本来学費が無償化されるべきことと日本の異常な高額費との矛盾を是正する措置としては、学寮はまだまだ定員が少なすぎると言えよう。
イ 不況による国民生活の困難
第2の理由は、不況の長期化に伴う貧困家庭の増大である。
本訴が提起された1997年頃の失業状況は、過去最悪の記録を更新した。総務庁の「労働力調査」97年5月発表の1996年度平均の記録では、完全失業率で3年連続53年以降の最悪記録を更新し、以降5月は完全失業率・数とも最悪、6月も率が最悪、10月も率は過去最悪、有効求人倍率は過去1年間で最悪、97年1月は、男子の失業率が過去最悪、有効求人倍率が5ヶ月連続低下、2月は率、数とも過去最悪、倍率は6ヶ月連続低下、3月は率が最悪を更新、倍率は7ヶ月連続低下、1997年度も率、数とも年度として過去最多、最悪、そして4月に完全失業率は4・1%で初の大台乗せ、倍率も8ヶ月連続悪化、完全失業率は5月4・1%、6月4・3%、7月4・1%と最悪の状況が続いた。さらに8月には完全失業数は297万人、完全失業率は4・34%で、ともに過去最悪、有効求人倍率も0・50倍で7月に並び過去最低となった。
当時の失業の理由として、人員整理など本人の事情にもとづかない理由による非自発的なものが増えた。非自発的失業は98年2月で76万人となり、7月84万人、8月91万人と急増している。失業者にすれば失業は青天の霹靂としてあらわれ、予期できない失業は、労働者の生活設計を根本からくつがえす性格をもつ。
又、当時の失業は、長期の不況と金融ビッグバンなどにより大手企業の倒産によるものが目立った。山一証券や北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行などがその典型であり、その他流通や建設ゼネコン企業の倒産による失業が問題となった。これらの失業は、大手企業本体が消滅してしまうという性格をもつ。
失業問題が極端に現れたのは中高齢者である。55歳から64歳までの失業率は、1996年度の全体の総平均が3・4%であるのに対して、4・0%、有効求人倍率も0・17%に対して0・26ないし0・07%となった。失業しやすく、しかもいったん失業したら再び仕事にあり就くことが殆ど出来ないのがこの中高年齢層である。東大生の親も、こうした中高年層だと考えられる。
中高年層の失業は、再就職が困難であることに加えて、住宅や土地のローン等の生活問題を抱えているという問題がある。
総務庁の「家計調査」によれば、住宅ローンを返済している世帯では1997年には月平均9万6000円以上のローン返済を行っており、その可処分所得に占める比率は16・7%にもなっている。世帯主が40歳から44歳では10万6000円、18・2%となっている。ローン返済額は固定的なものであるから、収入が減った場合、それだけ家計を圧迫することとなる。
生活困難が進む中で、1997年の自殺者が10年ぶりに2万4000人を越えたことが警察庁調べで明らかにされている。うち40代以上の中高年男性は2600人を越え、統計を取り始めた78年以降最高を記録している。動機別では経済・生活問題での増加が一番大きく17・6%増の3556人で、その内訳は負債が原因1778人、事業不振664人、生活苦365人、失業196人である(「朝日」1998年6月12日)。
以上のような、学生の親の世代、特に一般には裕福であると思われている東大生の親の世代にまで及ぶ生活苦に加え、国際的にも異常な日本の高額費、東京の家賃の高さを併せ考えれば、学生が安く住める寮はどんなにあっても十分ということはないと考えるべきである。
2000年の春に寮生550名を対象に全寮連が行ったドミトリーズアンケート2000集計によれば(乙113)、入寮動機で一番大きいのは、「経済的にゆとりがない」で新入生のうち84%、在寮生を含む全体のうち82%を占めている。
他方、人的交流を寮に求める学生も多く、新入生のうち29.1%が「友達を作りたい」との動機で入寮している。「通学に便利」との動機も同程度ある。
「もし寮には入れなかったら住むところはどうしていましたか?」との質問に対しては、「必死にバイトで下宿」が新入生のうち45.1%を占め、在学を諦めるとの声も、新入生の1.9%、全体の3.5%存在している。
1998年春、新入寮生対象に全寮連が取り組んだフレッシュマンズアンケートでも、入寮動機の1位は「経済的ゆとりがないため」であり、「寮に入れなかったら入学をあきらめていた」との回答もあった。
近時、学費が払えず、中途退学や除籍される学生は急増しており、とりわけ寮生の間では深刻な問題になっている。全寮連書記局に集まっている一言アンケートには、「弟妹が進学をあきらめた」「毎日がバイトで、授業に出るのが大変」「寮に入れなかったら大学をあきらめてくれといわれた」との声が寄せられている(全寮連第39回定期大会決議 乙114)。
この様に、不況ながびく今日の経済情勢のもとで、学生の経済的負担の問題は深刻であり、東大駒場寮を含む学寮が教育の機会均等を保障する施設として重要であることが見て取れるのである。
ウ 近年の留学生の増加
第3の理由は、留学生数の増大である。
1983年から84年にかけて、国際化を政治目標に掲げていた中曽根内閣は、「二一世紀への留学生政策」との文書を作成した。その中で、21世紀までに10万人の留学生を受け入れることを打ち出した。その結果、79年には約6000人だった留学生が、89年には3万1000人に上った。留学生の内訳としては、国費留学生、私費留学生、外国政府派遣留学生があるが、一番伸び率が高いのは私費留学生で、79年と89年を比較すると2万1000人の伸びとなっている。しかも、留学生の場合、一般のアパートにはなかなか受け入れられないという現状もある。
これらは、経済的余裕のない留学生が圧倒的多数であることを示している。こうした留学生の受け入れ先として想定されるのも学寮である。政府・文部省は、三鷹国際学生宿舎のような混住寮の建設を推し進めているが、10万人受け入れとの目標からすると、現状ではとても足りないし、今後ますます学寮が必要となることが予想される。
ちなみに、99年度の東大教養学部の留学生は、学部学生・大学院生・学部研究生・短期交換留学生・大学院外国人研究生・大学院研究生などの多様な形態があり、計349名である(東大教養学部のホームページより)。
『読売新聞』(2001年2月9日付け,大阪版,夕刊)に駒場寮で暮らした元留学生で現神戸大助教授の王柯さんの以下の寄稿が掲載された。そこには、留学生にとっての駒場寮の存在意義が如実に示されている。
[潮音風声]わが心の駒場寮 王柯(寄稿)
「東京大学大学院に入学した時、・・・キャンパスの中にある駒場寮を教東京の東西南北さえ分からない私にとって、自力で下宿を探すのは無理だし、一人で住むことにも不安があった。・・・24畳の部屋に二人で住み、共同の炊事場、洗濯機、広々した浴場。中国で8畳の部屋に七人という大学寮を含め、寮生活を10年以上送った私にとって、駒場寮の生活は快適そのものだった。
住み始めると、さらなるよさを感じた。先生も教室も図書館も近く、へたな日本語を直してくれる友人はいつもそばにいた。夜や休日になると人がめっきり減り、静かに勉強して疲れて寮を出れば、お正月の雪景色、寂しそうな夜桜、美しい景色は全部私のものだった。
私の部屋は中寮23号。春には窓辺に桜が満開、ここで多くの友人と出会い、若くない青春を終えた。駒場寮は騒がしい東京の浄土である」
エ 三鷹国際学生宿舎の入寮倍率に見る駒場寮の必要性
駒場寮の必要性は、三鷹国際学生宿舎に入りきれない学生が多数存在することからも、具体的、現実的に明らかである。
三鷹国際学生宿舎の1997年時の入寮倍率は約2〜3倍であった。毎年、三鷹国際学生宿舎を申し込んだ学生のうち数百名は入寮できないのである。現に1999年度の新入生募集枠が180名であったこと(乙第5号証)、入寮倍率が2〜3倍であったことからすれば、約235名が入寮できなかったのである。しかも、約2〜3倍という入寮倍率についても、三鷹国際学生宿舎は倍率が高いとの情報があらかじめ新入生にも伝わっている現状においての倍率であり、潜在的な入寮希望者は更に多いと考えられる。三鷹国際学生宿舎については学部当局は更に395部屋を建築予定であるいう。しかし、仮にそれが完成したとしても、395部屋全部に単一年度の新入生が入寮するわけにはいかないこと、入寮者には、教養学部後期生、大学院生、留学生もいることを併せ考えると、入寮希望者全員は到底入寮できないのである。他方、駒場寮には、学部当局が、「駒場寮は廃寮になったので、入寮することはおろか立ち入ることも違法である」と入学手続きの際に宣伝したり、学生に対してビラをまいたりしているにも関わらず毎年数十名の寮生が入寮する。従って潜在的な入寮希望者はその倍はいるものと考えられる。
以上を考え合わせると、仮に三鷹国際学生宿舎があと395部屋建築されたとしても、入寮希望者の殆どを収容するためには、少なくとも毎年100名以上、教養学部生2年間に限って考えても200名以上収容できる寮が三鷹国際学生宿舎以外に更に必要なのである。
オ 駒場寮生の実際の声と生活実態
実際に駒場寮に居住している寮生の生活実態に照らせば、駒場寮の存在意義が極めて高いものであることが端的に理解できる。
被告==は、原審での本人尋問の中で、自分の家庭は母子家庭で、経済的に貧しかったために、駒場寮に入寮したと供述している(被告==・22頁11行目以下)。
実際、1999年度の駒場寮の新入寮生等の代議員大会での発言(乙第6号証=寮委員長報告書)や、駒場寮委員会によるアンケートの自由記載欄に寄せられた声、「駒場寮生文集」の声から見ても、経済的理由から駒場寮に入寮した者が多いことが認められる(被告==・24頁11行目以下)。
「駒場寮生文集」には、駒場寮生の切実な声が寄せられている。
「私の父は私が生まれたときから糖尿病にかかっており、これまでに入退院を繰り返しながらも、家の商売を続けていました。ところが今年の七月に入り、視神経に異常を来たし、今となっては、ほとんど目が見えない状態です。もちろん仕事は出来ません。九月のはじめ、第一種障害者と認められました。
現在、実家の商売は母一人で切り盛りしていますが、この不況と父の看病にかかる時間を考えると、とてもこれまでのような仕送りを望むことは出来ません。このような現状で私が選んだ選択が駒場寮でした。」
「私は四人兄弟で一つ下の妹が私と同時に関西の私立大学に入学し下宿することになったために、家計のことを考えると私が東京で下宿するのは無理と思い、寮にはいることを決心しました。」
「実家は大阪で、最近父の会社が倒産し未だ失業中で、母親の収入と姉の援助で何とかやりくりしています。また家が借家で家主の方からあと一年くらいで家を出ろといわれていて、とても仕送りをもらえる状態ではありません。もちろん私はバイトをしていて、駒場寮があるおかげでそのバイト代だけで仕送りもなしで生活できています。」
「実家はアパートを経営しているため収入は安定していますが、私の兄と妹は私立大学の学生で、学費と生活費は全て両親が負担しています。築三〇年近い建物は修理・維持に多くの手間がかかっていますが、父親は七〇歳を過ぎているため、建物の修理・維持に外部の業者を入れることが多くなってきており、今年も相当な額の維持費がかかっていると聞いております。また、大学入学前から既に多額の借金があり、これからの返済を考えても実家からは可能な限り独立したいと考えていました。」
「私が駒場寮に入寮したのは、入学前になり突如家族が離ればなれになることが決まったために、住居を支給確保する必要があったためでした。経済的にも苦しい私の家計では下宿をとることは非常に厳しい選択でした。」
「ぼくも九州から上京してくるに当たって、東京の住居費、交通費は『貧乏人は大学に来るな』とでも言わんばかりの高額でした。家庭も父が定年退職しており、姉二人も大学生ということで、駒場寮がなければ東大を受験することすらためらわれる状況でした。最近、大学生の親の年収を比べると、東大生の家庭が一番高くなったという話もありますが、駒場寮には、全く仕送りをもらっていない学生も多く、中には親に送金している学生さえいます。」
「父は病気療養の名目で休職となりました。父は復職を望んでいます。父を診断した医師も、父は復職可能であり、自分としても復職させたいといったことを言っています。しかし、教育委員会の方針として、どうしても復職させないようです。
このことが私の家庭に与える被害は甚大なものでした。休職二〜三年の間、給料は通常時の八〇%となります。復職、そしておそらくは退職することになるとき、父は五五歳です。五年分の給料が丸ごとなくなるわけですし、早期退職のため、退職金が半分くらいになるのです。病気であり、いい年でもある父の再就職は望むべくもなく、家のローンを払うと、我が家の貯金は底をつきます。母は、『家を売らなければならなくなるかも』とこぼしていました。」
また、前述の寮委員会によるアンケートによれば、寮生の8割以上の家庭の主たる会計支持者の年収が、東大学生の平均収入以下である。寮生の生活費が約6万円と、東大の自宅外生の平均以下である。仕送りをもらっていない人が寮生の3割で、もらっている人も平均3万5530円と、東大の自宅外生の平均の約4分の1である。
娯楽費用も東大の自宅外生の平均の半分近いこと等や、様々な寮生の声から、駒場寮が経済的に苦しい家庭の学生が勉学を営む上で、非常に必要性の高い施設であることが認められる。
以上からすれば、駒場寮の廃寮によってもたらされるのは、教育の機会均等の原則及び教育を受ける権利の具体的な侵害であることは明らかである。
なお、原告は、関東近県に実家のある学生については当然に自宅通学が可能であると主張するが、通学による交通費の負担や通学時間の分のアルバイト削減による収入減少の負担をまったく看過している。
3) 三鷹国際学生宿舎は代替施設とはならない
原告は、駒場寮の変わりに三鷹国際学生宿舎を建設するのだから、代替措置としてそれで十分であると主張するが、この主張は寮生の生活や寮の管理運営の実態を無視する議論であって失当である。駒場寮は、厚生施設としてかけがえのないものであり、三鷹国際学生宿舎をもって代替することはできない存在である。
原審は、三鷹国際学生宿舎の建設を権利濫用の評価障害事実として認定しているが、その誤りは以下に見るように明白である。
ア 寮生の経済的負担の増大
@ 水光熱費の学生負担
駒場寮においては、1984(昭和59)年の合意書(乙3)に基づき、水光熱費の半額を駒場寮自治会が負担し、寮生個人は寮自治会負担額を寮生数で頭割りした額を負担していた。この措置は、水光熱費の半分を大学側が負担するとともに、寮自治会を介することによって直接寮生に水光熱費が請求されないようにし、「受益者負担主義」を回避するものであった。実際駒場寮においては、大学当局が各部屋ごとに電気使用料メーターを設置しようとしたことがあったが、寮生側の反対により設置されなかた。
ところがこれに対し三鷹国際学生宿舎では、いわゆる「受益者負担主義」が徹底化されている。すなわち三鷹国際学生宿舎では、水光熱費は宿舎生が全額を負担しており、プリペイドカードによって集金が徹底されている。個人の使用料は個別メーターによって明確化されるし、洗濯機までもコイン式である。
A 八倍以上の寄宿料
駒場寮においては、寄宿料は400円であり、寮自治会費6500円に含めて徴収されてきた。
これに対し三鷹国際学生宿舎では、3300円である。なぜ三鷹国際学生宿舎の寄宿寮が駒場寮の8倍以上に引き上げられなければならないのかについては、一切明らかにされていない。
B かさむ外食費
駒場寮では、キャンパス内に大学生協食堂があるのみならず、調理スペースを共有して調理器具も共有する人間関係が形成されていること、先輩からの器具の引き継ぎを受けられること、水光熱費の寮生の負担が限定されていたことなどから、大学当局によって電気・ガスが一方的に供給を停止されるまでは、自炊に恵まれた環境であった。
これに対し三鷹国際学生宿舎では、敷地内に大学生協食堂のような安価に栄養のバランスのとれた食事を提供する施設はなく、また、ガスコンロがないなど、キッチン設備が劣悪であり、個室で人間関係も分断されていることから器具の共有の習慣もなく、水光熱費の負担も大きいため、外食費が必然的に増加する。
C 通学に要する定期代
駒場寮においては、キャンパス内にあるため、通学に要する交通費はまったくかからない。これに対し三鷹国際学生宿舎は、交通費の負担が毎月1万円近く増加する。
D 通学時間のロスによるアルバイトへの影響
駒場寮においては、通学時間も数分であるため、アルバイトなどに時間を有効に活用することができる。
これに対し三鷹国際学生宿舎では、通学時間が往復で1時間半程度必要なので、その分アルバイトを削減せざるを得ず、その分収入が減少する。
E 1カ月7万7200円もの負担増加と奨学金制度の不備
1996年4月15日の学部長団交の資料によると、三鷹国際学生宿舎に移った場合の出費の増加は7万7200円となっており、これに対する大学当局からの合理的な反論はまったくなされていない。
原判決は、「駒場国際交流奨学金」なる制度により駒場寮から三鷹国際学生宿舎に移った場合の経済的損失が補填されるかのような認定をするが、まったく事実に反する。右奨学金の原資は教養学部教官有志の拠出による基金であり、貸与額も月額1万円に過ぎない。この程度の奨学金で前述の経済的負担が補填されないことは明らかである。
イ 学生自治と共同性の欠如
@ 前述の通り、三鷹国際学生宿舎においては学生の自治が確立しておらず、大学当局が一方的に入居者を選考するため、たとえば関東近県に実家を有する学生、最短修業年限を超える学生は、当然に応募資格を認められない。とくに、留年によって入居資格を失うという規則は、様々な事情で留年を余儀なくされた学生にとっては、日本育英会の同様の規則と相まって、留年者は住居と奨学金とを同時に失うことになり、留年者への二重の経済的重圧となる。
A 1994年10月に教養学部によって発行された「三鷹国際学生宿舎年間リポート」には、三鷹国際学生宿舎の交流の乏しさを嘆く宿舎生の声がいくつも載せられている。
三鷹国際学生宿舎について報道した乙19号証添付資料Eは、「寮生六〇〇人、友人ゼロ」との見出しの新聞記事である。三鷹国際学生宿舎は、全室個室で、交流も非常に少ない場であり、駒場寮で得られる共同生活での交流や人間的成長が得られず、この面からも、駒場寮の代替施設としての役割は果たせないのである。