駒場寮の歴史

東京大学において学内唯一の寮である駒場寮は、一九三四年中寮、一九三五年北寮、一九三七年に明寮が竣工した。この六十有余年に渉る歴史を、ここに振り返ってみよう。

駒場寮の源流
 駒場寮の歴史は一八九○年、本郷向ヶ岡に第一高等中学校の寮が開設されたときまで遡れる。この時に寮委員長、総代会等、現在まで受け継がれている寮の運営組織が作られた。まもなく第一高等中学校は第一高等学校(俗に言う一高)と名称を変え、寮は当時、意気高き一高男児の自治により繁栄したと伝えられている。名寮歌「ああ玉杯に」が生まれたのもこの頃の事である。
 一九二三年、関東大震災により寮は崩壊し、それを機会に一九三五年には第一高等学校(向ヶ岡)と東京帝国大学農学部(駒場)が敷地を交換した。こうして第一高等学校は駒場に移転、寮もそれに従って当時としては最新技術の鉄筋三階立てで新築された。これが現在の建物としての駒場寮の始まりである。(当時の建物で現存するのは正門、1号館、九○○番教室、一○一号館、教務課、駒場寮である)。寮移転の際のエピソードを一つ紹介しよう。向ヶ岡の寮が畳敷きであったのに対し、新しくできた駒場寮は板張りの床と洋風ベッドであった。板張りの床ではゴロ寝できないと寮生は猛反発、結局畳をはめ込んだベッドを導入することで決着した。今でもその当時の珍奇ともいえるベッドが使用されている。入寮したら君も寝ることになるだろう。

戦争前後の駒場寮
 世相は次第に不穏さを増していた。一九四一年、ついに太平洋戦争が勃発した。文系学生は戦場へ赴き、、軍隊が寮に駐留するなど寮生活・寮自治に大きな圧迫がかけられた。一高生達はその中で軍からの圧力と自主管理貫徹の狭間で苦悩したという。
 一九四五年五月、駒場も空襲を受け、寮は残ったが学校の建物はほとんどが消失した。八月、戦争は終わり、焼け跡の中で駒場寮の新しい歴史が始まった。一九四九年、学制改革により、第一高等学校、東京高等学校が東京大学に吸収され、東京大学教養学部となった。こうして駒場寮も東大教養学部の寮となった。

激動の時代
 東大の寮となって以来二十数年はまさに「嵐の時代」であった。レッドパージ、六○年安保、全共闘・・・。その激動の中で駒場寮は表では合意書取り交わしなどの場を、裏では論争のためなどの充分な時間を提供した。この時期駒場寮は数多くの人材を生み出した。六○年安保の頃は、田中秀征(第三十二期寮委員長・元経済企画庁長官)、西部邁(自治会委員長)、最首悟(総代会議長・元東大助手・現駿台予備校教師)が活躍した。田中秀征は四年前に寮を訪れこう言った。「当時我々は自立して国家権力に対峙していた。」その他岩國哲人、白川勝彦(政治家)、山田洋次(映画監督)、畑正憲(作家)、立花隆(評論家)らがこの時期の寮生である。そのあとの世代には、駒場寮で二次ブントを結成した柄谷行人、(批評家)、磯崎新(建築家)、加藤登紀子(歌手、但しサークル寮生)、全共闘の先頭に立ちそのシンボル的存在となった山本義隆(予備校講師)、長谷川和彦(映画監督)がいる。加藤登紀子はこう言っている。「煙を吸って、自由をはいて、情熱をしっかりため込む。それが駒場寮でした。」

新たな価値観を創出するスペース
 嵐のあと、学生たちの間に無気力感が広まる中、駒場寮は新文化の発生源となった。一九七○年代後半のこと、倉庫として使われていた旧寮食堂北ホールで勝手に演劇を始めたある学生がいた。寮委員会との対話を経て結局、北ホールは「駒場小劇場」と名付けられ、新しい演劇の拠点となったのである。その学生が誰であるのかお気づきの方もいらっしゃるだろう。そう野田秀樹である。他にも如月小春などの演劇人を生み出したこの小屋は現在でも数多くの劇団の練習・公演に使用されている。
 一九八○年、一九九○年代、「バブル経済」による東大生の親の生活水準の向上(平均年収は一○○○万円を突破した)と「受験地獄」と呼ばれる教育への競争原理の徹底による管理教育は学生自治のパワーダウンをもたらした。「社会の通例」に対して異議申し立てをすること、イマジネーションを働かせて一つの世界を創り出すといったことは、あまりに忙しい世相の中で難しくなっていった。
 一九九一年、東大当局は駒場寮の廃寮を発表した。まさに電撃的であった。学生が自主管理を行っている寮に対し、何ら事前の相談を行わなかったのである。図らずもこのことが学生の眠れる熱い血に火をつけた。学生自治団体は一斉に廃寮反対の意思を表明し、現在もそれは変わらない。九十五年度、駒場寮は学部からの強い恫喝の中、百人もの新入寮生を迎え入れた。そして九十六年の「廃寮」の年にも三十人、九十七年度は五十人、そして九八年度も五十人もの新入寮生を迎え入れた。
 そして一九九九年八の月、空から世紀末救世主ケンシロウが現れ、遂に駒場寮廃寮撤回。めでたくユリアと駒寮で同棲生活を送るのだった。
 駒場寮には学生自治による様々な可能性がある。是非多くの学生の力を結集し、「廃寮」を撤回させ二十一世紀の学生に駒場寮を伝えて行こうではないか。


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